イタリアの憲法改正に関する国民投票(主な内容)

イタリアの国民投票について、主な内容をまとめてみた。今回の改正はもっぱら統治機構に関わることだけで、人権部分には関わらない。

(1) 対等な両院の解消
 今回の憲法改正の最大の重点は、イタリア特有の上下両院の完全な対等性の解消にある。現行憲法第57条の改正により、下院は国家を代表する院となり、内閣の信任に独占的に関わることになる。一般の法案は下院のみの採決で成立し、その中には条約の承認や開戦の決定も含まれる。
 なお、下院については、今回の投票に先立ち、現国会を選んだ旧選挙法を改正した新しい選挙法が成立している。ポイントはこれまで勝者の選挙連合(多くは、同じ首相候補を推す複数の政党からなる)に与えられていた勝者プレミアムが勝者の政党に与えられることである。
 一方、今回の改正で、上院は、国民の直接選挙ではなくなり、内閣信任には関わらない、地方代表が集まる院となる。地方に関する法律に関わるほか、EUに関する政策と法律にも関わる。議員定数は現在の315人(元大統領と5人以下の大統領指名による終身上院議員を除く)から大幅に削減し、100人となる。ただし、95人は各州から人口規模により各州2人以上(現在の人口に合わせると、2人から14人までに分かれる) を、州議会議員から比例代表の原則に従って、ただし1人は州内の市町村長(州議会議員との兼職不可)のなかから、州議会が選ぶ。トレンティーノ=アルト・アディジェ州だけは、イタリア語圏のトレント自治県議会とドイツ語圏のボルツァーノ自治県議会からそれぞれ2人(うち1人は市町村長)ずつ選出する。つまり、95人のうち、74人が州(自治県)議会議員、21人が市町村長と兼職になる。ただし、選出方法の細則は法律によるので、それについては今後も議論が可能である。
 他の5人は、現行の終身上院議員 (共和国に高く貢献した社会、科学、文学、芸術分野の功労者から選ぶ)と同様に大統領の任命による。最後の大統領選出の5人については、地方代表の性格は付けられておらず、終身上院議員の暫定的継続措置の意味合いが強い。
 なお、上院で議員数が削減されるだけでなく、州(自治県)議会議員や市町村長を兼職するため、歳費は地方自治体持ちとなり、国庫からは支出されなくなるので、政府予算の節約になる。一方、国会議員には任期中不逮捕特権があるため、地方首長が議員としての特権を悪用して地元自治体で汚職を行わないかという批判がある。

(2) 提案型国民投票の導入
 国民投票には、従来の法律(行政措置を含む)の廃止、憲法改正諮問の国民投票に加え、新しく法律の制定を求める提案型の国民投票が追加される。ただし、国民投票実施請求のために必要な署名は、その投票の種類を問わず、すべて15万人となる。
 戦後のイタリアが重要な争点の決着に国民投票を多く利用してきたことはよく知られている 。現在、イタリアでは有権者5万人以上の署名か、5つ以上の州議会の請求があれば、憲法裁判所の合憲性審査を経て、国民投票を実施することができる。投票結果が有効となる最低投票率(50%)の設定があるが、憲法改正を問う国民投票では最低投票率の設定はなく、これは今回の国民投票にも当てはまる。
 憲法改正の是非を問う国民投票にも前例があり、2001年の国民投票では地方分権が強化された。しかし、これまで国家の統治機構の根幹については大きな憲法改正はなかったといってよい。
 なお、極めてまれな例だが、諮問型の国民投票が行われたことが1回だけある。これは、1989年6月、欧州議会選挙と同時に行われたが、ECが連合となる過程で欧州議会に制憲議会の役目を認めることへの賛否を問うもので、88.03%の賛成を得ている。これと同様の投票は現在、五つ星運動がユーロ圏残留・離脱を問う国民投票の実施を訴えている 。
 いずれにしても、国民投票の種類が増えるのは国民の自発的意思による社会変革の手段として良いことに思えるが、必要署名数が15万人に上がるのは、むしろ国民の意思が反映しにくくなるという議論は当然あり得る。

(3) 地方制度の改革
 憲法第2部第5章にある地方自治の規定については、長くイタリアの地方制度に存続してきた現在107ある県(provincia)は廃止される(トレンティーノ=アルト・アディジェ州のボルツァーノ、トレント両自治県を除く)。
もともと県は、統一国家の先兵として、フランスをモデルに国家治安警察など国家の警察権の行使を全国隅々まで行きわたらせるために設置された。地理的名称として後発の州以上に長く用いられ、国民の生活に浸透している。
戦後、共和国憲法で予定されていた州(regione)の設置が1970年まで遅れたたために、県は市町村と国家の間で一定の役割を持ち続けたが、主要都市の大都市圏化と州の設置、州知事の公選による州の権限の強化は、やがて県の権力の空洞化をもたらした。現在では県知事は主要都市の市長村長よりも影が薄く、キャリアの上でも県知事は州知事や有力市長に比べても優位にはない。
 そして、近年では行財政改革の中で、経費削減の面からも、県の存在意義自体が問われるようになった。モンティ政権期から一部の県の廃止は検討されていたが、レンツィ政権のもとで一部の県の再編が実施された。まず、2015年にローマ、ミラノなど14の県 は、大都市圏(citta metropolitana)となった。同時に、シチーリア州(特別自治州)では、パレルモ、カターニャ、メッシーナの3県がローマなどと同様の大都市圏となったのと同時に、アグリジェントなど残りの6県は、県を廃し、コムーネ(市町村)連合となった。また、2016年に入って、サルデーニャ州(特別自治州)の4県 は、2012年5月に行われた同州の住民投票の結果に従い、廃止され、カッリャリ大都市圏、サッサリ県、ヌオーロ県にそれぞれ吸収された。
 しかし、今回の改正では2自治県を除くすべての県が廃止となる。その結果、州の権限は強化されるが、コストの面からは県の廃止によるコスト減が州のコスト増を上回るかどうかは微妙である。また、州の強化といっても、中央政府に対して地方政府への分権が大きく進むとは必ずしも言えない 。

(4) 国家経済労働評議会の廃止
 国家経済労働評議会(Consiglio nazionale dell'economia e del lavoro, CNEL)は廃止される。CNELは、共和国憲法が求める経済・社会分野での協調を実現するために1957年に設置された、財界と労働界の代表者への諮問機関 であったが、政府と経団連(Confindustria)などの経済団体や3大労組との間での政策協議は、この常設の評議会でなくとも行われているとして、その存在意義がなくなったという判断による。ただし、この廃止によるコスト減は実は年2300万ユーロに過ぎない 。

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「チリの闘い」を見て

「チリの闘い」3部作(90分×3)を見に来た。右派と米国に潰されたアジェンデ左翼政権のチリのドキュメンタリーで、撮影後に監督も軍事政権に捕まるが、フィルムは国外に出ていてセーフという奇跡のような映画。当時のイタリア共産党の危機感はチリの事情が分からないと理解できないが、この映画を数年前に見て感想を熱く語っていたのも、イタリア研究の先輩だった。
 第1部は右派側に注目した映像で、アジェンデ政権に対するありとあらゆる嫌がらせが連発される。それでも労働者のアジェンデ支持は衰えなかった。残った手段が、第2部の軍によるクーデタ。最後にアジェンデが残る大統領宮が空爆されるが、それまでの左派の分裂や混乱も出てきて、見ていて心が痛む。
 朝日の劇評が書くように、この映画の白眉は第3部で、これだけで一つの映画としても見られる。アジェンデの国有化路線を潰すために右派と米国が起こさせるストや買占めとそれに対する労働者の抵抗が、どちらもここまでやるかと見せられる。右派がトラックやバスを止め、工業・農業・小売の経営者団体がストをすると、労働者は工場や農地を占拠、自主管理して、職場には乗り合いで来て生産を続ける。しまいには直販や買占め摘発、「人民商店」までやる。後世のわれわれは彼らがいずれ敗れると知っていても、その健気さに感動する。
 1秒も退屈しない、超弩級の作品だった。

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シチリアのバスの中で

 この夏、シチリアを旅行したとき、アグリジェントからシャッカまでバスに乗った。前方でバスの運転手(日本ではあり得ないが、イタリアでは基本的に任された仕事=この場合は運転=をこなしている限り、それ以外のことは緩い。自分の好きな音楽をかけたり、客と大声で話す運転手もいる。もちろん、寡黙な真面目な人もいる)と客が大声で話していた。途中で若者とお年寄りの客通しがまるでイギリスのBrexitのように議論を始めた。
 若い方はどうもコムーネ(市町村)で仕事をしているらしく、「シチリアでは役所がEUや政府の補助金を使って民間企業を育成しないといけない」といえば、お年寄りは、「政府やEUの金が俺たちのためになっているか。生活状況は、50年代のキリスト教民主党の時代より悪いぞ。大体、なにが民営化だい。ここじゃ何をどこから買うかなんて、みんな決まっているような、しがらみだらけなんだ。シチリアが独立すればいい」若者「水でさえ、本土に頼っている。無理だ。」などと言っていた。
 シチリアをよく観察すれば、イタリア国内の南北の格差やEUに対する反感など、イタリアの抱える問題がよく表れているかもしれない。なにせ、この州は特別自治州で、現在の第1党は五つ星運動なのだから。
 面白かったのは、別の客が運転手に無駄話ばかりして遅れてるぞとケンカになり、運転手に、そんなに言うなら、別のに乗り換えてくれと言われ、本当に途中のターミナルで前後するバスに乗り換えたこと。なんか、イタリアに来たなあと変な感懐を持った。

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ヨーロッパの守護聖人たち

 マザー・テレサが列聖された。つまりコルカタ(カルカッタ)の聖テレサとなったわけだが、同時に彼女は毎年行われるカトリックの「世界青年の日」と自身が創設した「神の愛の宣教者会」(Missionaries of Charity)の守護聖人となる。
 この「守護聖人」(patron saint)が気になって勉強し直しているのは、輪講の「ヨーロッパ地域文化入門」で、これまで「ヨーロッパ統合の父たち」について話してきたのに飽きて、今年から「ヨーロッパのシンボル」という表題に代えたからで、聖ベネディクトを始めとして6人もいる「ヨーロッパの守護聖人たち」についても言及しようとしているからだ。もっとも、6人いてもメインはあくまで聖ベネディクトであるらしい。
 実は、聖ベネディクトがヨーロッパの守護聖人であると知ったのは、ヨーロッパ諸国が毎年共通テーマで発行している「ヨーロッパ切手」で「人物」をテーマとした年に、複数の国が取り上げたのがEUの父ジャン・モネとヨーロッパの守護聖人である聖ベネディクトだったからだ。
 私も一応、西洋史学の卒業なので、修道会などの重要性は知っていた。ただ、「ヨーロッパ」とは、ヨーロッパ人にとっても当たり前の認識ではなく、歴史的に形成されてきたものだ。また、カトリック教会についていえば、当然ヨーロッパでの布教に貢献したことが大きく、パウロ6世によってヨーロッパの守護聖人にされた聖ベネディクト以外の5人がヨーロッパの守護聖人とされたのは、ヨハネ=パウロ2世の時代であることもよく理解できる。北欧や東欧の布教に貢献した聖人もいることは、それぞれにヨーロッパ的役割を演じているからだろうが、このco-patronageというのが、なんとも興味を引くのである。
  ヨーロッパの街々を旅して、その街の守護聖人が誰かという話を聞くのは楽しいものだが、守護聖人にもいろいろあり、特定の職種の守護聖人もいるし、ヨーロッパの守護聖人の一人であるシエナの聖カタリナ(カテリーナ)のように幾つも「掛け持ち」している守護聖人もいるのである。

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イタリア&欧州100都市踏破を目指す、私的なこだわり

 海外旅行が好きである。若いときはお金がなくて、仕事に関係のない海外旅行はできなかった。ようやく40代後半になって、その余裕が少しできてきた感じである。また、それなりに責任のある仕事が増えて、これまで以上に仕事のストレス解消のため、休暇が必要になってきていることもある。
 同じ年代には100名山登頂を目指す友達がいるが、私も、イタリアが多数の個性的な都市で成り立っていることからよく言われる言葉「チェント・チッタ」(直訳すれば「100都市」だが、文字通り100に留まらない多さを含意)にならい、定年までにイタリアで100都市、イタリア以外のヨーロッパ諸国で100都市に行こうとしている。もちろん、これ以上の人もたくさんいるだろうが、老後にも備えないといけない(定年以降はあまり余裕はないだろう)ので、その中で自分で実現可能な目標としたものだ。
 もちろん、こんなことにこだわる必要はまったくない。ただ、一つ言えることは、私が職業的には国際関係論とヨーロッパ政治を教える大学の教師であることで、やはり大学風辺や本だけの知識でなく、いろいろな街を見たほうが、教師としてもいいだろうということ。もう一つ真面目な理由は、国境線が何回も変わり、人の移動も多いヨーロッパは国単位だけではとらえられず、個性ある都市をたくさん見ないとよく分からないということだ。
 街の数え方には私独自のルールを作っていて、その街の胆である何かを見て、1回以上食事したところ(ただし、孤立した遺跡など物理的に食事が難しいところを除く)を、基礎自治体(市町村)単位で1つと数え、明らかに一つの都市の延長部分に当たる街は数えず、単に通過しただけの街も含めない、というものだ。このルールを適用すると、現在イタリアが41、イタリア以外のヨーロッパが42であり、重い病気になったり、失職したり、日本経済が崩壊しなければ、14年後の定年までにちょうど達成できるだろう。
 どれだけ見ても分からないことはいっぱいある。全部知ることなどできないし、その必要もない。ただ、多く見たほうがいいことは間違いないだろうし、その方が楽しいだろう。

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アマチュア無線の思い出

 テレ朝の「タモリ倶楽部」は、マニアックな話題を取り上げることが多く、それでもなぜか面白いが、今晩は大学のアマチュア無線サークルを取り上げていた。亡き父の趣味がアマチュア無線だったので、懐かしかった。実家にあった大きなアンテナも撤去してしまったが、番組で学生が言っていた、電波の状況により遠くの外国と交信できることもあるということは、父からもよく聞かされたことだ。
 番組で学生が交信していたように、父もコールサインのJA9LJを伝えるとき、ロンドン(L)ジャパン(J)、名前は「ヤマトのヤ、ソロバンのソ、タバコのタに濁点」と言っていた。しかし、調べてみると、仮名の伝え方は和文通話表というものに合っているが、LJの伝え方は本来は欧文通話表というものがあって、リマ(L)ジュリエット(J)が正式のようだ。ただ、これに従わず通信する人はいるらしく、また業種によっては多少違うこともあり、NATOフォネティック・コードというものもあるらしい。父も海外と交信するときは、通話表通り、YをYankeeと言っていた気がする。
 筑波、芝浦工大、日本工業大、中央大など、やはり工学部のある大学が番組に出ていたが、目下の課題がYL(Young Lady)の獲得だというのも分かる話である。アマチュア無線は全盛期は国内50万と言われたものの、今は衰退し、広告だらけで分厚かった専門誌『CQ』も随分薄くなっている。
 工業高校の電気科の教師だった父が英語を勉強したのは、海外のハム雑誌を読み、海外と通信したかったからである。高岡工芸高校の姉妹校である米国のエルムハースト高校は、父が交信した地元のハムから紹介してもらい、付き合いが始まったものだ。
 アマチュア無線は、もともとは知らない人が通信して友達になるという、とてもいい趣味だと思う。ネットでも同じことは可能だが、やはり肉声であることがよいのではなかろうか。

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沖縄の旅 (2)

 今回の最大の目的だった基地観光をした。もちろん、米軍が見張っているようなところで見るわけではなくて、基地外の誰がいてもよいところで、遠巻きでも「見える」場所から見るのである。ただ、自然に「見える」わけでもなくて、後で述べるが、おそらくは日本側の意地もあって、基地が見える場所に見えるようなものが作ってあるのである。
 9時前に約束したハイヤーの運転手が迎えに来た。朴訥な人だが、各地で降りて簡単に案内をしたり、現地の情報を教えてくれる。最初に北上し、嘉数高台公園に向かったが、その途中で那覇の「新都心」と呼ばれるところを通った。これは米軍から返還された土地で、もともといい場所を米軍がおさえていたので、すぐ高級マンションなどが立ったという。付近一帯のかなり大きな土地だったらしく、ショッピングモールや県の博物館・美術館も他県でもあまり見ないほど大きなものが立ってくる。この辺の町名「おもろ町」は琉球歌謡の古典『おもろさうし』から採られたという。
 嘉数高台公園はもともと太平洋戦争で激戦地だったところで、今は米軍の普天間基地の滑走路の延長線上にある。ただ、すぐ近くにあるわけではなくて、公園との間に住宅、企業、学校などがたくさんあり、これが沖縄国際大学へのヘリ墜落でも明らかになった、街中の危険な基地という特徴である。公園は高台にあるので、遠くまで見え、住宅などの向うに基地も視界に入るのだ。逆に言えば、遠くにあっても、十分見える大きさがあるくらい、基地はそこそこデカいということでもある。
 この公園は基本的には激戦の慰霊地的な存在で、100段ほどの石段を上ると、展望台のほかに幾つか慰霊塔もある。特に「京都の慰霊塔」というのが立派である。なお、石段の途中には左に入っていける道があって、この奥には日本軍の陣地壕だったという洞窟が見られる。3階建ての展望台の2階にはラジオと双眼鏡持参のおじさんが二人いたので監視活動かと思ったが、運転手がそうかと尋ねても「そうでもない」という。ヒマつぶしなのか、真剣な監視なのか、今一つ分からなかった。
 展望台から見ると遠くに普天間基地の滑走路が見え、またオスプレイがたくさん停まっていることは肉眼でもかなり分かる。ただ、カメラを構えても小さく見えるだけ、かなりズームアップしないと、それと分かる写真は撮れない。
 この展望台は各階が円形で周囲を360度見えるようになっている。基地と違う方向には海が大きく開けて見え、港があり、昔この辺が琉球の物流の中心であったことが分かる。また、米軍が北谷あたりから上陸してくるのがここからはよく見えただろうと思われる。
 この展望台の近くには旧日本軍の使ったトーチカ跡があって、かなり傷んでいるが、銃座の位置などは十分に分かるし、鉄筋の一部が欠けたコンクリートから浮き出てしまっているのも見える。石段を降りたところには、弾痕が残る塀がある。もともと一つの建物の塀だったのだが、残った部分が自立できないのか、周りを固めて固定している。
 再び国道58号線を北上するが、特に右側に米軍基地のフェンスが多く、嘉手納基地周辺に入ると、これがずっと続く。また途中からは、道の左側、つまり海側にも燃料タンクなどがあり、道路が両側を基地で挟まれるようになる。嘉手納基地が広大なのは、この縦方向の長さでも分かるが、後で横方向も長いことが分かる。
 嘉手納の弾薬庫と基地は瓢箪型につながっていて、真ん中部分のくびれのようなところの基地外の土地に作られたのが「道の駅かでな」だ。4階建ての建物の4階に展望台があり、ミリタニーマニアが写真を撮りに来ている。これができる前は「安保が見える丘」というところから沖縄の人たちが監視していた。日本側の意地のような感じで建てられた気がするし、よく米軍がこれを認めたなと思う。「道の駅」なので、1階で土産物を売っているが、戦闘機の写真や米軍のマークが入ったTシャツも売っているので、まじめなような、お気楽なような、不思議な感じである。
 展望台に立つと視界いっぱいが基地だ。長い滑走路が横に走っている。遠くには大きな格納庫がたくさん。修理に使うのか、とりわけ大きな格納庫も見える。ただ、私が着いたのは9時台で、飛行機は輸送機らしいものが2機あまり見えるが、戦闘機などは見えない。どうも10時過ぎから米軍の演習などが始まるらしく、ミリタリーマニアたちは椅子に腰かけて、まだ自分たちの仕事の時間ではないとでもいうかのように、寛いでいた。道の駅の前には騒音計があるが、基地を囲む木々も基地を隠すというより、騒音軽減の目的だという。
 道の駅の3階には学習展示室があり、基地ができる前の嘉手納のジオラマや、過去に飛来した、あるいは今飛来する軍用機の種類など、いろいろなパネル表示があった。とりわけ、嘉手納町の領域の83%ものが基地で、北部の弾薬庫と南部の基地に挟まれた残りの細長く狭い土地に住民が押し込まれている現状が写真地図のパネルで見やすく表示されていて、沖縄でも他に例をみないような、ひどい状態である。しかも、基地は嘉手納町だけでなく、北谷町や沖縄市(旧コザ)の一部にも及んでいるのだ。
 焦点の基地を二つ見たあとは、やはり辺野古を見たくなる。ただ、辺野古はここから数十キロ先とやや遠いので、契約した5時間の中で帰ってこれるか分からなかったが、ここまで来て見ない手はないと、高速料金をこちらが支払うことで行くことにした。この「道の駅」を出てからも、嘉手納基地の間の道をいろいろなものを見ながら、ようやく基地の外に出るのだが、建物には当然、英語でFire Stationなどと書いてあるのである。途中、Stray Animalsという字も見たが、基地内の野犬等の処理だろうか。
 小一時間、自動車道を走った後、辺野古崎はどこから見るのだろうと思ったら、キャンプ・シュワブのフェンスから少し砂浜を挟んだところに小さな漁港の堤があり、これが海に向かってまっすぐ伸びているので、その先ならフェンスを視界から外して辺野古崎がよく見えることが分かった。この堤に立つと辺野古崎は十分に見えるし、その近くにある二つの小島も確認できた。印象的だったのは海の色で、エメラルドグリーンなのだ。ジュゴンも来ると言われたのも分かる。
 雨で濡れた砂でハイヤーを汚したくなかったので、私は堤は越えなかったが、若い人たちはフェンスまで砂浜を歩いて行っている。フェンスには抗議の横断幕が付けられているが、メッセージはこちら向きに書かれている。米軍に見える裏にもメッセージが書いてあるかどうかは分からないが、何か変な気がした。ただ、よく考えると、辺野古移転は日米両政府の合意だから、日本政府に向かっても抗議して当然なのである。
 この小さな漁港には監視のための基地として「テント村」があり、この日も何人かいた。ここは、抗議の場所でなく、ベース・キャンプというか、休憩ポイントという感じだ。車に乗り、陸側に入り、左右両側に基地がある道路を車で通ると、基地のゲート前の向かい側の道に抗議のためのテントが張られていた、「テント禁止」の看板にもかかわらずテントが幾つか張られていたが、この日は沖縄の人たちが大事にしている、祖先を送り出す旧盆の最終日なので、誰もいなかった。幟の中に「沖退教」という文字もあったが、これは退職教員の組合だろう。
 辺野古までの行程はスムーズで、正午過ぎには見たいものは見た感じになった。契約は5時間なので、運転手の提案で海岸の名所があるというので任せることにする。上述したように、この日は旧盆の最終日で、途中でエイサーを踊る人たちを見た。運転手は普通、夜に踊るもので、昼は珍しいと言っていた(これについては後で違う説を聞くことになる)が、もともと旧盆最終日に踊るものだったが、何日も踊るようになったという。中に面白いメイクをしている人がいたが、これは西洋でいえばピエロのような道化役らしい。とても良いことに、若い人が踊るのが盛んらしく、もっともあの踊りは若くないと踊れませんけどね、という話だった。
 名護市から北部の海岸をぐるぐる行った先の恩納(おんな)というところにあるのが「万座毛」という石灰岩の断崖絶壁である。後で調べると沖縄本島有数の景勝地らしく、中国、韓国の観光客が多かった。天皇・皇后両陛下も来られたらしく、歌碑がある。ところが、駐車場の両脇のお土産屋さんは全部、旧盆の最終日ということで休みである。
 断崖の上に曲がりくねった遊歩道があるが、特に写真ポイントになっているのが、ゾウの鼻のような形の岩が見える場所である。また、ビーチに面した方を見ると、全日空の大きなリゾートホテルが立っていた。プライベートビーチと付近にこの景勝地、よくできたホテルである。ご丁寧にというか、ビーチの前の海中にはどこぞの夫婦岩のような対の岩まであって、しめ縄が張ってある。
 「万座毛」の「毛」とは草原という意味らしく、ここにはアダン、ソテツなど南国の野趣あふれる植物も生えていて、昨日、平和祈念公園の資料館で知った、沖縄の人が飢餓の際にソテツまで口にしたという話をすると、運転手がソテツには毒があり、食べるにも水にさらして少し寝かさないといけない、それも待てずに口にした人が多く死んだと教えてくれた。
 また、「琉歌の里」という看板が気になり、聞くと、短歌でもないが、独特の節回しで歌うものだという。三線も使うらしい。私が都都逸のようなものか、と聞くと、その例えがあっているかどうか分からないと答えた。有名な女流歌人がこの辺にいたらしく、記念碑がある。ここでいい時間になったので、沖縄自動車道に乗り、終点の那覇まで南下した。
 首里城公園でハイヤーを降り、1時過ぎになっていたので、まず公園入口のレストランでソーキソバを食べた。首里城は外観はなかなか趣があるが、観光客たちが言っていたように、やはり中国に似た感じがする。しかし、内部はあまりにもきれいに観光化されている感じがして、今一つしみじみと歴史を感じることはできなかった。面白かったのは、最後にお土産を買ったら、お釣りに守礼門が描かれている2千円札をもらったことだ。どうも2千円以上のお釣りに一枚入れるように準備してあるようだ。本土ではあまり流通していない2千円札が沖縄ではこういう観光的ニーズなどで結構使われていると聞いた。
 首里にはモノレールの終点があるが、首里城公園からは少し距離がある。運よく、入り口に空車のタクシーがいたので、ひとまずホテルに戻ったが、運転手にエイサーについて、先のハイヤーの運転手から聞かなかったことを聞いた。エイサーが若い人にも盛んなのは、コンクールがあるためで、そこには現代風にアレンジしたものも多いという。どうも、高知のよさこいのような感じで流行っているらしい。先に見た道化役は「京太郎」(ちょんだらー)というらしい。
 この伝統芸能は、本来お坊さんが先導する念仏踊りで、そういう古い形のエイサーも一部の地区に残っているという。後は私の聞き書きなので、正確な内容は文献と対照しないといけないが、どうもエイサー的なものの起源となったお坊さんは京都から来たらしく、もともとは東北出身だったので、福島の「じゃんがら」という念仏踊りに似たところがあるという。また、昼にエイサーを踊るところも結構あると聞いた。

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沖縄の旅(1)

 沖縄に来た。那覇は意外に大きな街で、市域にいる間はずっと建物しか見えない。糸満行のバスに乗ったが、隣の豊見城に出るまで、畑も農園も見えなかった。おそらくは20個以上のバス停を経て、糸満バスターミナルに着いたのは小一時間後だった。このバスターミナル、実際は都内でいう「車庫」に近い。決してつくばセンターのようなターミナルではない。タクシー乗り場もない。まぎらわしいことに目の前が自動車学校で、練習用の車はたくさん走っている。ここから平和祈念堂行のバスに乗り換えるつもりであったが、次のバスは1時間半後。電話ボックスに入り地元のタクシーを呼んだ。
 平和祈念公園はなかなか大きな場所で、どこから見ればいいか分からなかったので、まずは資料館に入った。琉球処分から始まって、沖縄の苦難の歴史がたどれる。特に心が痛んだのは国が沖縄方言を禁止しようとしたことで、生徒が学校で方言を使うと罰に「方言札」というのを下げさせられた、その札が展示されている。改姓改名運動もあり、当時の新聞を見ると、国側は沖縄の姓を珍奇なものとバカにしている。特高はユタも捜査対象にしたらしい。ただ、柳宗悦という人はえらい人で、そういう時代に沖縄に来て、人々に沖縄独特の文化を守るよう説いて回ったらしい。それを国側の警察長官が批判している。
 特別展示で沖縄と日本が委任統治していた南洋諸島との関係を取り上げていたのは勉強になった。結局、あの辺の島でグアムだけがフィリピンの延長のようにアメリカ領で南洋諸島に食い込む感じで位置し、第二次世界大戦で激戦地になるサイパンやトラック諸島などのミクロネシア、後でアメリカの信託統治領となって独立する島々に、沖縄からたくさんの人が行き、また戦争で犠牲になっていることも分かった。
 戦争中の話は痛ましいこと限りないが、沖縄独特のあの建物のような墓が、沖縄の人の隠れ家や米軍の陣地にもされたことが分かった。当然、両軍の攻撃で破壊されたわけである。戦後のアメリカの統治下もいろいろな事件があるが、B52が落ちたり、サリンを含む毒ガスが貯蔵されていて、事故もあったようで、本当に痛ましい。
 資料館から出発したのは間違いでなく、すぐちょうど奥が平和の礎になっており、そこから丘を登ると、各都道府県の慰霊塔がある。もちろん親戚などの犠牲者はいないが、やはりこの地の果てまでやってきて亡くなった同郷人がかわいそうで、お祈りした。
 4時前に見学を終え、バスでひめゆりの塔へ。前から「ひめゆり」って花はないよなと思っていたが、展示を見て並び立っていた二つの女子学校の校誌のタイトルがそれぞれ『乙姫』『白百合』だったらしく、校誌の統合でそういう名前ができたらしい。塔は小さなもので、その背後にゴツゴツの岩肌が出たガマ(洞窟)がある。この地は南に敗走する日本軍の野戦病院の「第三外科」があったらしい。資料館の展示を見ると、この地に多いガマに作られた野戦病院も、戦争の展開や死傷者の増加で次々と分室を作っている。動けない重病者を置いていかざると得なかったり、助かる見込みのない傷病者に青酸カリ入りの牛乳を飲ませたりしたらしい。医療が整わないので、手足の切断はよくあり、そういう過酷な場で看護を女子学生がしていたわけである。途中で降伏すればいいものを、最後の最後になって、戦場のど真ん中で解散となる、本当にひどい話だ。

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「やそだ総研」HP消失の理由

 一部の方から関心を寄せていただいていた「やそだ総研」のホームページは現在ウェブ上に残っていません。プロバイダがホームページのサービスを廃業したためで、引っ越し先を探しています。何かまずいことをしたり、炎上したわけではない(そんな人気はもともとない)ので、復活したら、この頁でご案内します。

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姉妹都市の組み合わせの妙

 ドイツを旅行して、ミュンスターの教会前に有志の人が「ヒロシマ十字」なるものを花で作っていたり、ハノーファー市庁舎で「ヒロシマ展」などが開催されていて、感心したのだが、いささか勉強不足だったのは、広島がハノーファーと姉妹都市だったことを知らなかったことだ。
 姉妹都市は、必ずどの国とも組むようなものでもないし、単に街の性格の類似性だけでなく、きっかけになった出来事や仲立ちになった人などにも影響されるから、正直なところ、必ずしもベスト・マッチではないのではと思うものも、大きなお世話だが、ないわけではない。ただ、もともと、イタリアやドイツのように、一つの街にいろいろな機能が集中していない、街々にそれぞれの表情がある国の街は、日本のどこと組んでいるか、興味が湧く。
 ちなみに、ドイツと日本の組み合わせは、ベルリン=東京、ハンブルク=大阪、ケルン=京都は、文句の付けようがないし、ミュンヘン=札幌、マイセン=有田も理由はすぐ想像できる。ただ、港町では、リューベック=川崎があっても、横浜や神戸は特に相手はいないようだ。その中でハノーファー=広島はやはり目を引く。それぞれ、ニーダーザクセン州の州都、中国地方の中心都市と、国レベルでの重要都市だが、戦災で激しく破壊されたという点でも精神的な共通点を持っているのが、興味深い。
 一方、イタリアと日本だと、ローマ=東京、ミラノ=大阪、トリノ=名古屋、フィレンツェ=京都といった納得の組み合わせのほか、ナポリ=鹿児島、サンレモ=熱海、ビエラ=桐生、ファエンツァ=土岐などは理由がすぐに思い浮かび、なるほどといった感じだが、サレルノ=遠野、ソレント=熊野、マントヴァ=近江八幡、ヴェローナ=長浜は面白いと思った。でも、ジェノヴァと横浜、神戸あたりで組めなかったの、とも思ってしまう。

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