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イタリア新大統領はなぜ、ヴェントテーネ島に行ったか?

先ごろ旧共産党系で初めて大統領に選出されたイタリアのナポリターノ大統領が、中部イタリアの離島ヴェントテーネ島で演説をしました。上院が2議席差と左右両陣営の対立が激しい中で、中立的な憲法の番人である大統領は、しかし、欧州統合への貢献は全政治勢力の責務であると戒めたわけです。

大統領がいちばん近い港ガエータからも船で2、3時間離れたこの離島に来たのには理由があります。イタリアだけでなく欧州各国にその名が知られるようになった欧州連邦主義者スピネッリの亡くなったのが、20年前の今月なのです。来年は生誕100年ですから、今年、来年と関連行事は続くでしょう。

スピネッリは同じく反ファシズム政治犯として、この島にあった収容所にいたコロルニ、ロッシと今日「ヴェントテーネ宣言」と通称される欧州統合運動のマニフェストを起草し、1941年の夏、夫コロルニと対面が許されていたウルスラ・ヒルシュマン(あのアルバート・ハーシュマンの親族です)にこの文を密かに託し、それが本土のレジスタンス活動家に回覧され、戦後のイタリアの欧州主義運動のもとができたのです。

スピネッリが釈放後、スイスやフランスで他国の欧州主義者と交わり、それが各国を横断した連邦主義運動になりました。もちろん、これが欧州連邦主義の唯一の起源ではありませんが、その哲学は同じ連邦主義の思潮のなかでも特筆すべきものであり、今日でも読まれ続けています。

ナポリターノ大統領自身もスピネッリと無関係でなく、スピネッリが欧州議会で推進グループを作って採択させた欧州連合憲法条約草案(今日話題になっている欧州憲法条約とは別のものだが、基本的発想は似ている)に協力した一人です。ナポリターノはイタリア共産党では「右派」と目され、教条主義的なイデオロギーからは遠く、「影の外相」として同党の外交政策を欧州主義志向に転換した貢献者です。

ナポリターノ新大統領もチャンピ前大統領もレジスタンスに関わった人ですし、過去の大統領にはペルティーニのようにスピネッリと同じく、ポンツァ(これもヴェントテーネと同じく離島)の収容所にいた人もいます。

会場には、欧州憲法条約の草案を作ったコンヴェンションの副議長だったアマート新内相(元首相)、欧州中央銀行理事だったパドア=スキオッパ新経済・財務相(自身の名前を関した欧州統合に関するリポートでも有名)、EU委員だったボニーノ新欧州担当相(出身の急進党は「欧州合州国」を推進)の欧州主義者3閣僚が列席したようです。

これで、少なくとも新政権になったことで、イタリアから再び欧州統合にポジティブなメッセージが出てくることが期待できます。

これこそ、わが「やそだ総研」の心待ちにしていたメッセージです。

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記憶力減退との戦い

35歳くらいから自分の記憶力に自信がなくなってきました。もちろん生活に困るようなものではありませんが、しばらく会っていない友人の名前が思い出せない、昔すらすら出てきた歴史的人名も出てこないようになるといったことです。昨年、久しぶりに駒場に行って、後輩のK君にT君と呼びかけて、後で二人の共通点は眼鏡しかないことに気づき、自己嫌悪に陥りました。ただ、おかしなことに名前は取り違えても、彼らの研究分野はそれぞれ思い出せたのです。研究者よりも研究対象を見ているのか。

それでも、まったく希望を失うわけでもないのは、人間の記憶にはやはりコンピューターにはない不思議な力もあるからで、時間はかかっても、あるきっかけで思い出すことがあります。

DS大人の脳のトレーニングなどは買えないので、風呂に浸かりながら、昔すらすら出てきた人名やいろいろな名詞のセットを思い出してみます。アメリカの大統領では簡単ですから、研究者らしく?、アメリカの歴代国務長官を思い出してみました。10代、20代の全盛期に覚えたものは強く、キッシンジャーやベイカーのような有名人はもちろん、サイラス・ヴァンスやアレグザンダー・ヘイグ、マスキーやクリストファーといった目立たない名前も出てくるのに、あのイラク戦争のときの、自分でも論文に書いた名前が出てこない。

やばい。ついに俺もここまで来たか。顔も経歴も覚えている。あの、アフリカ系の、軍人出身の、湾岸戦争で統合幕僚会議議長も務めた、尊敬される人物。本の名前も出てくる。「マイ・アメリカン・ジャーニー」。なぜだ、名前だけ出てこない。

風呂を出て、テレビをつけると、あの有名な不思議系アイドルがなぜかヨン様とCMに。

(小倉優子)「コリン、コリン」

え!コリン、コ、コ、コリン・パウエル!

お粗末でした。ここまで、まじめに読んだ人、すみません。ネタでなく、事実です。

どうも、あの立派な体格が、コリンという響きと結びつかなかったようです。

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5月9日のもう一つの意味

ヨーロッパやEUの政治や歴史に関心のある人は、5月9日が何の日か知っているはずです。もちろん、「シューマン・デイ」、1950年5月9日に、今日のEUに先立つ諸機関のうち最初のもの、欧州石炭鉄鋼共同体の基礎となるアイディアをフランスのシューマン外相が発表した日です。その原案作成者が「ヨーロッパの父」ジャン・モネであるのも周知のこと。

では、1978年の5月9日は?実は、この日にイタリアでは極左テロ集団「赤い旅団」により誘拐されていたモーロ元首相(当時キリスト教民主党党首=イタリアの場合、党首は名誉職で、書記長が実質のリーダー。むしろ首相経験者など「上がり」のポスト)が殺害された日だったのです。現在、東京、渋谷のユーロスペースで公開中の「夜よ、こんにちは」はこの史実に仮託したフィクションで、殺害した側の若者の目線で描いたものです。

私も鈍行&夜行バスの貧乏旅行で見てきました。ストーリーは営業妨害になるので詳述しないこととしますが、さすがに私も中学生のころ、まだイタリアの何も知らなかったころなので、挿入される当時のニュース映像だけでも個人的には満足しました。ただ、テロ側の若者がモーロの人間性に影響を受けるという筋書きはいかにもという感じがあり、もう一ひねり欲しいと思いました。

このブログの読者は研究者とは限らないので付記しておきますと、モーロは戦後のイタリア政治の中心だったキリスト教民主党の代表的な政治家で何度も首相、外相などを歴任、当時イタリア共産党のベルリングェル書記長が唱えた共産党とカトリックの「歴史的妥協」のカトリック側の対応者と見られていた人です。この「歴史的妥協」自体が、70年代にイタリアで深刻化した極左・極右のテロの多発と経済政策の行き詰まりへの一つの答えであり得たはずですが、結局、モーロが暗殺され、数年後にベルリングェルも急死して、この選択肢はなくなります。

当時の政府は「赤い旅団」の求めには一切応じず、老い先短かったローマ教皇にも満足に仲介の役を果たさせず、この映画にも暗示されているように、むしろモーロを放置したのではないかという観測もあります。共産党との連携をアメリカからも危険視されていたモーロがもし死ねば、「歴史的妥協」は潰え、さらにカトリック側は左派への格好の攻撃材料を手にすることになります。それは、20数年後の今日、キリスト教民主党亡き後、その正統な後継者でもないのに、中道・右派のリーダー、ベルルスコーニが折に触れ、こうした過去のテロを左派の非難に使っているくらいです。

例え、フィクションでも戦後イタリア政治史上、最大のなぞであるこの事件に多くの人が再び関心を持ってもらえるなら、上映はそれだけで成功といえるかもしれません。もはや旧カトリック系と旧共産党系が連立を組むのは当たり前になり、次の大統領は史上初めて旧共産党系から出るかもしれません。その候補の一人が、ほかならぬ旧共産党系で始めて首相になりコソヴォにイタリア軍を派遣したダレーマなのです。

モーロという名は、この際、もう一度想起されるべき名前でしょう。

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「やそだ総研」を上回る「やそだ社長」発見!

「やそだ総研」および「欧風堂」を愛する皆様に悲しい?お知らせです。「やそだ総研」はもはや「やそだ」検索のトップではなく、第2位です。漢字の「八十田」にはすでにテレビ・ドラマでも名脇役として大活躍の俳優「八十田勇一」さんが「八十田」族のなかでは圧倒的に優位ですが、ひらがな「やそだ」でも「やそだ総研」のはるか上を行く、その名も「やそだ社長のよもやま話」という立派なブログがあることを確認。近しい研究者仲間からの愛称「社長」もついに年貢の納め時かもしれません。それはそうと、この「やそだ社長」製造メーカーの社長さんらしく、ブログはコルクの写真など技術的な話で、写真入りで分かりやすいし、なかなか勉強家の社長さんです。

「八十田勇一」さんにしても「やそだ社長」にしても、その道のプロとして尊敬されている職人気質の人ではないかと推測しています。欧風=八十田博人もかくありたし。

ちなみに八十田勇一さんは私と同年の生まれであることが判明しました。勇一さんのほうが5ヶ月先輩です。

蛇足。欧文表記のYasodaはどうもヒンドゥー教の偉い女神(キリスト教の聖母マリアクラス)にいるらしく、つづりがYasodaないし、Yassodaとバリエーションがあるのですが、あるいはヤショーダとでも呼ぶかもしれません。インドに行ったら歓迎されるかな?

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