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私がイギリスや日本を研究対象にしなかった理由

土曜に科研の研究会で東京に行ってきました。イタリアの財政政策について語った翌日の日曜、久しぶりに目白駅近くの「切手の博物館」に行って、中にある郵趣サービス社のショールームで新着の切手を買ってきました。ホームページ「やそだ総研」に掲載したニルデ・ヨッティが図案になったイタリアの女性参政権60周年と制憲議会選挙60周年の切手です。後でアップします。

イタリア研究なんて日本ではマイナーな分野で、なんでもっと世の中に広まったイギリスなどをやらなかったのかと度々思うのですが、その一つの理由に、子供のころ感じた切手発行国としてのイギリスと日本のつまらなさがあります。

この2国、切手発行政策上は共通点が一つあるのです。まず、めったに歴史的事件や人物を題材にしない。イギリスでは4点組みで発行されたチャーチルを例外として、首相クラスでもまず出ません。日本は吉田茂すら出ませんが、少なくとも文化人については、毎年「文化の日」に2~3点出すようになり改善されました。イギリスでは文学上の架空の人物シャーロック・ホームズは5点シリーズで出ましたが、作者コナン・ドイルはない。女流作家は4点セットで出たことがあります。

理由は分からないのですが、おそらくイギリスは立憲君主制で、通貨は全部女王の絵で切手にも片隅に女王のシルエットが入りますから、あまり偏った図像が使えないのは想像できます。間違っても社会主義者の記念切手に女王のシルエットを入れることはできないでしょう。多分、日本は歴史に対する臆病さでしょう。とにかく、判断を避ける、問題になりそうなものは一切やらないという官僚主義ではないでしょうか。

ヨーロッパの大陸諸国、特に共和制の国々は、何を置いてもまず人物、と思うほど発行点数が多い。もちろん、独裁者でない限り、存命中は発行されませんが、切手でフランス文学史も、フランス政治史も簡単に作れます。左翼政権のときに頑張って左翼政治家を発行するという偏向もなきにしもあらずですが、政権交代もありますし、対立陣営でもこれはという人物は必ず発行しますから、ある意味大人の見方ができる。つまり、発行点数が多いから、いろいろなものが発行できてバランスはいつかとれるわけです。

もちろん、発行に迷う例もありますが、今回のイタリアの女性参政権60周年のように、長くイタリア郵政から排除されていきた共産主義者も、ヨッティのように人気のある人は、本人の記念でなく、こういう記念のモチーフとして使うこともできるわけです。

ヨーロッパだけではなく、アメリカも結構歴史を大事にしています。大統領はどんなに人気がなくても死後1年ほどで追悼切手が出ます。ニクソンはウォーターゲート事件で辞任するという不名誉な退場をしましたが、それでも国家国民があるとき、この人に国を委ねたんだという敬意を示してちゃんと発行されました。民主党のクリントンの時期です。日本のように大臣病でなく、法案を作ったことで名を残す名議員のほうが単なる大臣よりも発行の可能性が高いのも、やはり民主政をよく理解している国だと思います。

歴史を解釈することを恐れず、少々の性格の偏りも含めて総合的に人物を判断する、そういう気概と勇気のある国家、国民でありたいものです。

ところで、イギリスのほうはまだポリシーがありますが、最悪の切手発行政策をしたのは日本です。現在「ふるさと切手」という各都道府県レベルで独自のデザインを出す切手がありますが、こんな馬鹿な政策をとる国はほかにありません。こんなことをすると、クオリティーが低くなり、どうでもいい地方的な意匠が多くなるのは目に見えているからです。案の定、人物切手も国の文化人切手にくらべると極端にレベルが低いです。

この政策の責任はだれにあるのか。「ふるさと創生論」という中身のない政策?を出したあの人のせいです。いい意味で国家、国民のプライドは捨てないでほしいものです。

日本郵政に最後に一言。「アニメのキャラクターより実在の人物だろ!」

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演劇と映画

プロ野球のチームがリアルな闘争心を磨くためにラグビーの試合を見に行ったのをニュースで見たことがあります。それと同じというわけでもないのですが、私はときどき演劇を見たくなります。生身の俳優と同じ空気を吸っている、場合によってはその息遣いも聞こえてきそうな、他の観客の感覚全体が伝わってくる感じ、それだけでも休日としては十分充実しているように思えます。

今の仕事に就いて、土日は人並みに休めるようになったものの、講義の機会は少なくなり、表現者の持っている、あの全身を観衆に投げ出すような感じをせめても観客として味わいたくて、週末勤務の代休となった木曜の一日を東京の日帰り観劇に使うという、貧乏人には過ぎる贅沢をしました。

もちろん、見るには美女に越したことはないわけで、特に木曜を選んだのは、この日の午後に北区つかこうへい劇団の黒谷友香スペシャル「売春捜査官 女子アナ残酷物語」の追加公演が決まったことに発します。前の東京行きで紀伊国屋に張ってあるポスターを見かけたものの、事前決定の日程の前売りは完売、当日券を狙うしかなかったわけですが、この追加公演もすぐにネットは売り切れになりました。朝の1便で羽田に降り、首尾よく残っていた前売りで結構いい席を得ました。

もちろん、百戦練磨のつか氏のこと、人を食った表題は観客もみなお見通しの上での来場、この演劇が「熱海殺人事件」の数あるバージョンのひとつであることも周知のことです。それでも楽しめることも観客は分かっているし、期待している。黒谷友香がセクシーな衣装を着て出てくるわけでもない。それも分かっている。演技というものは、すべからく裸でするようなものだし、カチッとした衣装から、心も体もの律動がむしろよく伝わってくる。

広末涼子など、それまでのアイドルやモデルから女優へと脱皮していくきっかけとなってきたつか氏の演劇ですが、黒谷さんの場合もそれは成功している感じがしました。30前後の女性がいちばんきれいに見えるものですが(主観的に断定してすみません)、観客を睨みつける視線もダンスも凛々しくて素敵でした。

演劇の不思議なところは荒唐無稽ともいえる設定が、俳優たちの演技によって、なにかしらの現実のリアルな再現になってしまうことです。「熱海殺人事件」の数あるバージョンで共通の、なぜ、美人ならともかく、無視して放っておけばいいはずのブスをわざわざ殺すことになるかという理由の探求は常にリアルです。

連休中には一本だけ映画を見ました。イタリアの「13歳の夏に僕は生まれた」。梅田のスカイビルの映画館で、渋谷東急のBUNKAMURAのパンフを売っていたので、ようやく東西のスポットの類比が一組できました。とにかく、私は大阪という街には文化面では何も期待していない(ごめん!)。むしろ、この街が東京の最大のコピー都市になってくれることを切に願う、東京至上主義者なのです。東京のミニシアターでかかるヨーロッパ映画を全部見せてくれれば、それで満足です。

この映画の最初の場面設定は、パンフの解説者も認めるように唐突ですが、それ以後の違法移民たちの描き方はリアルで、もちろん実際よりもきれいにしてあるシーン(移民の女の子たちがシャワーを浴びるシーン)もありますが、思わず唸らされるところも多々あります。ストーリーをばらさずに指摘できるところは、移民を載せた船で怪しげな人物二人が操舵する船室の天井や壁にヌード・グラビアが貼りまくってあるところ。90年代末からイタリアで評判になったレティシア・カスタ(サン・レモ歌謡祭の司会も務めたイタリア系仏人モデル)のそれなど、いかにもありそうで納得しました。

エンド・ロールで出た協力者のリストにレッチェ、ガリポッリというプーリア州(イタリア半島の長靴の踵にある)の地名が出ていたことは、まさに移民が流れ着く州でロケしたことを示していますし、移民が働く街としてロンバルディーアのブレーシャが選ばれたのも、この映画で移民問題を始めて知る人にも格好の設定です。実際、移民センターのシーンは、これまでニュース報道で見てきた実物を思わせるほど、よくできていました。

しかし、どんなに装置がよくても、それだけでは映画にならないわけですが、何よりも、この問題が個々人の力ではどうにもならないものにしても、徒労に終わることが多くても無視できるものではないし、そこである意味ジタバタするのが人間なんだということを伝えてくれる好篇だと思います。

明日からは、また日常が始まりますが、自分も何かをリアルに伝えたいという気持ちだけは忘れないようにしていきたいと思います。上記の映画のパンフに掲載されているイタリア研究の先達、北村暁夫さんの一文によって、旧知の人の文を遠くで読むということから、なぜか元気づけられます。

それにしても、ブログというものは日記のはずなのに、なぜかシリーズものの遺言じみてくるのは、年のせいでしょうか。まだ30年ほどは生きていかねばなりません。

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独裁国家もテロもない世界になったら

大半の人々と同様に、私も北朝鮮が日本本土にミサイルを撃ち込めば自殺行為だ、というあまり根拠のない理由づけで安心しています。しかし、彼らが本気であれ、狂気であれ、ミスであれ、ミサイルを撃ち込んだ場合にそれを破砕する能力は現実にないのですから、結局はすべてが中間的な仮説でもあります。

しかし、かなり先のことになると思いますが、北朝鮮で独裁体制で倒れた後の世界は、それ以前の世界よりもよい世界になるかというと、どうも期待が持てないのです。北朝鮮のミサイルの報道が一巡した今、ハワイ沖では日米など8ヶ国がミサイル演習を行っています。こうした問題国の存在が逆に日米の関係を強化し、自由主義陣営の団結を守ってきたし、その上に日本がかろうじて経済以外の分野で少なからず国際的地位を保ってきたからです。防衛の面で緊張のある時代のほうが、日本の政治的地位が高くなったのは事実です。

一つ言えることは、共通の脅威で団結している現在の日米を常態と見てはいけないのではないか、北朝鮮が独裁体制を終了したとき、そこで見えてくる生身の我々は、ブッシュ政権時の日本でなく、クリントン政権時の日本に近いであろうことです。防衛問題が重石の役目で無くなり、アメリカが対日関係で実態経済でうまく行かないところは、法と政治で自らの意思を他国においても貫徹させるという意気込みでかかってきたとき、果たしてわれわれにそれに戦う備えはできているのでしょうか。それは、ある意味で暴力よりも陰湿な面もある(もちろん高度に洗練された部分もあるが)知的な闘争といわないまでも競争になるのは、間違いないだろうからです。

不謹慎の極みですが、北朝鮮や成功しないテロがあったほうが、生命に関わらないちょっとした黴菌に備えるように、無防備な日本は安全でいられるのではないか、とさえ思います。

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