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フセインの死刑執行と日本

クリスマスの後の静かな休暇に国際社会が入っている今、イラクのフセイン元大統領に死刑が執行されました。これは主権を回復したイラク政府によるものですが、世界にはそれをアメリカの影響によるものと見る見方も多いでしょう。

ところで、これとまったく別の事象ではありますが、25日、まさにクリスマスの日に日本で4人に死刑が執行されています。長瀬甚遠法務相が署名したから執行されたのですが、死刑の存廃議論は別として、なぜこんな日に執行したのかと、そのタイミングの感覚を疑います。

要するに死刑が合法である以上、執行しないというのは大臣や法務当局の怠慢になるということと、メディアの観測では、統計上年内に執行しないとその「実績」が今年はゼロになるという焦りなのでしょうけれど、生死という極めて倫理的にも重要な事柄が行政的な手続きや、行政内部のきちんとしなければという小さな論理一貫性で処理されたことに嫌悪感を感じます。何か慌てて大掃除したというような感じすらします。そんな問題ではないはずなのに。

ひょっとしたら、世間がお祭り騒ぎになっている瞬間にメディアでの報道も考えてこの日にしたのかもしれません。偶々重なったフセインの死刑とも連想されて、決していいイメージを国際社会に与えないでしょう。

もちろん、イラクにしてみれば、このままフセインを生かしておくのは時限爆弾を抱えるようなものだったかもしれません。ヨーロッパのど真ん中で1989年のクリスマスの後にルーマニアのチャウチェスクが法的には問題のある手続きで即処刑され、その画像が世界に配信されたときは、確かに独裁政権が崩壊したと周知させなければいけないという必要があったことが感じられ、人々はそれだけ独裁政権が強力だったかと逆に納得もしたのです。

それに比べれば、凶悪であっても、日本の死刑囚は、少なくとも執行を急ぐ必要はあったかと問わざるを得ません。日本の法務当局、というかそれを動かしている内閣は、難民に対する政策でもそうであるように、問題の本質に迫って深く考えると言うよりは、いかにも官僚的な問題の処理だけを急いでいるように思います。

本質的な価値の探求なくして、尊敬される国にはなり得ないでしょう。現首相の唱える「美しい国」は、品格のある国ではないようです。

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