« 2007年3月 | トップページ | 2007年5月 »

なぜ記号式投票にしないのか?

大阪市議選で「こなみ」と仮名書きした票が「小波」(さざなみ)氏の票となった開票作業をめぐって「小南」(こみなみ)氏が抗議。少なくとも按分(小数点以下をつけて分ける)すべきであると。

至極もっともな主張である。

しかし、そもそも先進国で候補者の名前を投票者にわざわざ書かせること自体、珍しいことは知られているだろうか。比例代表制であるドイツ、イタリア、ベルギーなどは、候補者とその政党のシンボルマールが大きな投票用紙に記載されていて、それに×などのマークをつけるだけである。(×のマークはヨーロッパでは「ダメ」を意味しない)

ほかによくある例は、候補者名の札があって、それを1枚のみ封筒に入れて投票するパターンだ。いずれにしても記名しない。

日本で名前を書く理由はよく分からないが、私は根拠はないが、保守主義者(党派を問わない)たちの陰謀ではないかと思っている。政見を語ることなく、名前のみを連呼する街宣車などという非文明的なツールを利用して(これ自体、先進国では異常である)とにかく自分の名前を書いてくれ、という流れでは、やはり名前を書かないと盛り上がらないということではなかろうか。そんな浪花節、必要だろうか?

もう一つは踏み絵的効果である。現在のような市町村合併が進む前には、小さな村が村民こぞって投票に行き(これ自体はよいこと)、自民党へ投票して、その投票率から忠誠心を明らかにするということがあった。市町村ごとに各候補の得票は客観的な数値として公表されるので、大都市以外は動員の善し悪しがはっきり出るのである。(その意味では中央官庁主導の今回の市町村合併は、自民党に打撃となったかもしれない。)富山のある小村が驚異的な投票率で、それに注目した首相の訪問が実現した例がある。

投票所には立会人がいるから、最初が縦か横かで書いている名前が分かるケースはある。日本の投票ブースは投票者はお互いを見ないでいいが、立会人からは見えるケースが多い。これでは秘密投票の原則は少しだが崩れている。アメリカなどでカーテンつきのブースを見たことがある人も多いはずである。

もっともらしい嘘があって、記号式だと選択が軽んじられるというものがある。馬鹿馬鹿しい。われわれはもっと自分の人生に直接関わる書類で幾らも記号で答えている。投票者のためを考えれば、記号式にしない理由はないはずだ。

|

わたしの愛唱歌

気持ちがひどく沈むとき、歌など歌っても気は晴れませんが、生きていく希望を与えてくれる歌は、むりやり明るく振る舞おうとする歌ではなく、静かに「それでも生きていこう」とささやいてくれる歌です。

私にとって、一つはトワ・エ・モアの「誰もいない海」。シンプルな歌詞、曲なのに、悲しくても、寂しくても、死にはしない、という海に対しての静かな誓いが、よいかと。

もう一つは、一般には「マイ・ウェイ」として知られる曲のフランス語原曲「Comme d'habitude」(いつものように)。英語版はポール・アンカとフランク・シナトラによって、おじさんの自画自賛曲になってしまいましたが、クロード・フランソワ作曲のフランス語の原曲は全然違います。

直訳だと著作権の問題があるので、散文で書き直すとこんな感じです。

朝起きて、愛する人の髪に手をかけるけれど(いつものように)、背を向けられてしまった(いつものように)。服を着て一人でコーヒーを飲んで、遅刻してしまう(いつものように)。外に出ても空は曇り(いつものように)、寒いので襟を立てる(いつものように)。何とかその日をやり過ごし(いつものように)、無理して微笑んだりもするわたし(いつものように)。こうして生きていくのさ。

人生には、ものすごく楽しい瞬間もありますが、毎日のほとんどはこういう日々です。しかし、上のように自嘲的な人も、何とかそれほどおいしくないコーヒーでも味わうように人生を味わいながら生きていんだ、という感じが、腑に落ちます。

郷里で尊敬する伯父とお別れをしてきたばかりで、しんみりしていますが、こんな私でも生きているだけで意味はあると信じて生きていこうかと思っています。

|

公立学校には制服は不要

規定労働時間を過ぎたので茶を一服していたら、ヤフーで公立高校の生徒の10人に一人が授業料減免を受けているというニュース。

関連記事を読むと自分の知らないことばかり。

・国連人権規約で高等教育の無償化を求めているのに日本は逆行している(超有名な条約なのに、この規定知らなかった。はずかしい。)

・現在、公立高校でも年11万円以上の授業料がかかること。

・1年生は初年度納付金や制服代など自己負担を入れると30万円を超えること。

で、思ったのは、なんで制服をやめないのですかね?

制服だと貧富の差が現れないとかいいますけど、そんなもの、持ち物や行動様式で丸わかりですよ。今の若い人の服はカジュアルだし、ドレスも着てこないでしょう。それこそいじめられる。

格差拡大なら、要らない費用を少しでも減らしたほうがいいはずです。義務教育のように学用品費などの補助制度があるのか分からないのですが、あったとしてもやはり無しのほうが無駄なお金がかかりません。

欧州のように、制服なし、スポーツは学校の部活でなくボランティアで、学校は学科教育にしぼるというようなスリムなものにしたほうが、教員の負担も減っていいと思うのですが。とにかく、この国では教師を労働者としてとらえなさすぎです。医師のように高い収入があれば別ですが、土日は休ませないと。

|

« 2007年3月 | トップページ | 2007年5月 »