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太陽系第9の惑星

 テレビのニュースをつけたら、観測でなく理論的な研究で太陽系第9(先に惑星でないとされた冥王星を除く)の惑星(惑星の定義にあてはまる星)を日本の大学研究者が発見とのニュース。大変夢のある話。
 ふと気づいたのは、発見した先生でなく、その発見がどんなものか解説をコメントしていたのが、同じ高校を同期で卒業したN君(Nさんというべきか)だった。もちろん、進学校の落ちこぼれであった私は、当時から秀才の名が高かった彼とは親しい間柄の友人ではない。しかし、先に面白い本を書いて話題になった経済学者のK君(Kさんというべきか)とN君は、文字通り私の学年の文理それぞれのピカイチだった。
 みな、40を超えて、まさに社会の第一線でがんばっているのだなと痛感。それにしても惑星科学とは何とスケールの大きい学問だろうか。哲学の次にうらやましい。

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ネグリ来日

 多くのイタリア関連ブログで書かれていることでしょうが、邦訳書に予告があったように、アントニオ・ネグリが来日するようです。なんと、東大安田講堂で講演と徹底討論。討論者がカン尚中氏(名字がワープロで引き出せず、すみません)と上野千鶴子氏という東大本郷の最強タッグ。これは聞かずにおけません。
 グローバル化に伴う帝国論の日本での受容(需要?)はすさまじいのですが(『現代思想』でも少なくても3回は特集しているはず)、彼の本国イタリアではそれほど大騒ぎされる存在ではないので、これはなんなのだろう、と思っています。斜陽の日本マルクス主義業界に久しぶりに大スター登場ということなのでしょうか。

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「反・政治」芸能人の政治参加

 イタリアで既存の政党、政治家のほとんどを揶揄するブログを書いている反・政治的芸能人のベッペ・グリッロが、自らの名前を掲げた選挙名簿で地方選に参加する模様。どうも必ずしも本人が立候補するものではなさそうだが、いよいよ実際の政治に関わるのだろうか。
 戦後初期に既成の全政党に反対する虚無的な反動政党「凡人」党(同名の新聞でその思想を流布)というのが、イタリアで数年続いたことがあり、その再現ではないかと警戒する人々に対し、本人は否定するものの、こうした政治の意図的な卑小化も、政界全体のモラルを少なからず減退させている。
 日本にはこうした人はいない。ただ、ワイドショーで自分の主観でVの後に捨て台詞をつける司会者などは若干それに似ている。そういう人には政治参加してほしくない。

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知識人の政治参加

「週刊朝日」最新号に東大法学部の蒲島郁夫教授が熊本県知事選に出馬の記事。びっくり。
 私は先生が教鞭を執られた筑波にも東大(駒場)にも在籍していたのですが、先生所属の学部にはいなかったこともあり、残念ながらお会いしたことはありません。もちろん、私も先生の書かれた教科書で勉強しましたし、先生は朝日新聞と組んで、ゼミ生を活用し、日本政治に関する多くの調査・研究成果を出されてきたなど、われわれ政治学徒の誰もが尊敬している先生です。
 ヨーロッパでは結構多いのですが、まだまだ日本では本当の知識人が政治参加する例はまれです。以前、私が来日行事を裏方で手伝ったヴェネツィア市長で哲学者のカッチャーリは、講演で「政治は実践だ。実際に政治に関わらずして政治を論じても、セックスせずに愛を語るに等しい。」と語り、聞いている私たちは耳が痛いというよりも、もっと内臓的に、痛いところを突かれた思いがしました。
 イタリアでは大学教授が出馬しても失職しない(公職にある間も講座を保持し続ける)という条件の違いもあるのですが、困難であれば困難であるだけ、今回のご決断には、政治学者は皆、襟を正される思いがするでしょう。

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ローマ市長の返り咲き?

 ローマ市長選(市長候補を筆頭に掲げる政党リストで戦う市議選と連動する=したがって落選市長候補も市議になる可能性が高い=が、候補者名で投票できる。市長選は過半数取れなければ上位二人で決戦投票)の中道・左派候補にルテッリ副首相。その後援委員会も結成された。もともとローマ市長(1993〜2001)での成功を糧に2001年総選挙で統一首相候補となった(ベルルスコーニに敗北した)人物である。当選すれば、返り咲きということになる。
 現市長のヴェルトゥローニが次の左派の統一首相候補となるためだが、このヴェルトゥローニは第1次プローディ内閣の副首相で、左翼民主党(PDS)のダレーマが首相となるのに従って、再編された左翼民主主義者(DS)の書記長になった後、その職をファッスィーノに譲り、ルテッリの後任のローマ市長になったのである。民主党に合同した穏健左派と中道の主要ポスト棲み分けにも見える。
 まるで副首相、首相候補と首都市長の職を二人で交代するような形になり、日本から見ると不思議だが、おそらくは日本と似た事情とそうでない事情が相まっている。
 一つは、人材不足。1993年時点では新興の改革勢力だった二人ももうベテランである。左派の固定客である国民の3分の1くらいには彼ら現代的な穏健改革派の評判はいい。しかし、彼らにとって代わる玉が左派になく、新味がない。実は、この1993年から市長の公選が始まったわけで、こうしたことが起こるのは、逆に市長職がそれだけ国内政治全体で重要なものになったことも意味する。アメリカ好きでニューヨークの市長名を何人か言えない人(私でもブルームバーク、ジュリアー二の他に、ラ=ガーディアやコッチとか出てくる)はいるまい。しかし、イタリア好きでもかつてこの町に住んだ人を除けば、1993年より前の市長名を思い出せる人はほとんどいないだろう。
 私は1999年の欧州議会選・地方選でヴェルトゥローニの演説をフィレンツェで聞いたことがある。インテリらしい風貌に反して声量はあって堂々とした演説であり、知性も感じられたが、何かが足りないという印象を持った。簡単にいえば、大衆性ということだと思うが、その土俵ではベルルスコーニには誰も勝てない。中道小政党や最左派を失った新生(新星?)民主党がイタリア版「純化路線」で突き進みつつある現状は、実は危機的であるのだが、オバマ・ブームにあやかって勝利への期待感を煽ろうとしている。
 この類推は成り立たないのではないか。オバマは中央政界ではまだ数年のキャリアしかない。しかし、1993年からはもう15年も経ってしまっているのだ。日本ですら、1993年や1996年の時点での主要な政治家はもう表舞台にはいない。わたしがイタリア左派と類推するのは、ヒラリー・クリントンだ。

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イタリア外交はどこへ

 あるニーズのために、イタリア外交に関する論文を執筆中。ところが、これが当初の予定が狂い、イタリア議会が解散し、次の政権も不透明で苦戦中。もともと書きやすい分野ではないのに、どうなることか。
 しかし、過去2年を振り返ると、中道・左派政権は少なくとも外交ではよいことをした。発足直後にインド、中国に政財界の大ミッションをプローディ首相自ら先頭に立って行っただけでなく、首相、外相それぞれが訪日している。右派のベルルスコーニは演説で「アメリカも日本も中道・右派政権(共和党、自民党)ではないか」とか言ったわりにはアジアにあまり来なかったが、その点で差別化を図ったのだと思う。それが議会解散で中断した。
 ベルルスコーニ政権(第2次)では首相による一時的兼任も含めて4人の外相がいたわけで、右派勝利の場合、またフィーニ(国民同盟党首)が副首相・外相となるのだろうか。もっとも、ネオ・ファシスト政党を親欧州の保守政党に変えた彼は、外相としては目立った業績もないが、官僚層との齟齬も少なく、手堅いとの評もある。
 イラク派兵のように、緊迫した場面で仏独と異なる路線をとることは、イタリアの存在を浮かび上がらせてくれる。しかし、平時に立場を異にしても欧州外交の中核を形成する英仏独の外交パワーに入り込むのには常に苦労している。ましてトラブルメーカーが率いる右派政権となれば、どうなることか。

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図書館を評価する私的指標

 政治思想の論文に引用されていたカントのマイナーな論文を邦訳で調べられないかと思って、自宅の周辺を中心に東京の公立図書館横断検索でカント全集の所在を調べる。調べたい論文は70年代に編まれた理想社の全集には入っておらず、世紀をまたいで刊行された岩波の新しい全集に入っている。
 しかし、区立図書館(都立は日比谷以外はまず館外貸し出しをしてくれない)のうち、東部では古い全集のみ。新しい全集は東京の中部・西部に行かないとなかった。これは、高額所得者が西と南に住む東京の配置と無関係ではないと考える。20巻を超えるカント全集はあるいは買いにくいかもしれないが、7巻のマキャヴェッリ全集は買いやすいのか、イタリア人気?なのか、東部にも所蔵は多い。
 公立図書館の指標によく所蔵冊数が挙げられるが、あまり意味がない。質を見るには、やはり基本的な文献があるかどうかを見なければなるまい。その際にはやはり学問の王、哲学文献を指標とすべきではあるまいか。政治学や経済学のように時代の変化を受けやすいものはともかく、古典的な哲学は確実に揃えてほしいものだ。
 大学にはあるだろう、とwebcatで検索をかけるとカント全集はさすがに300件以上ある。しかし、キケロー選集が7件しかヒットしないのは不思議だ。この人名の日本語表記には短くキケロという表記もあるので、そのためかもしれないが、古典軽視でないことを祈る。この指標は、ある程度まで大学評価の指標にも使えそうだ。
 なお、こうした所蔵データは有無を含めて各図書館の占有情報なので、具体的にどこにあるかは書けません。あしからず。

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18年前、ジュネーヴで

 コソボ独立で、18年前にジュネーヴで遭遇したデモを思い出した。「コソボ、レピュビュリック(共和国=自治州でなく、独立国に、ということだろう)!」とフランス語で連呼していた。当時は私も学生で、興味本位でデモをカメラで写そうとしたが、若者が寄ってきて、公安にフィルムを取られると自分たちは逮捕されるかもしれないから撮らないでくれ、と言われて、確かにそうだ、すまない、といって撮るのをやめた。国籍や市民権がない人の場合は、デモをした国から強制送還(民主主義国はめったにしないが)される可能性もあるのだ。
 あの頃からずっと独立運動をしていたのか、と思うと、冷静な分析はともかく、コソボにある種の同情を禁じ得ない。

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ソルジェニーツィンの今

 マイ・ブームは衛星放送のロシアのニュース。ロシア台頭のせいで早朝のフランスのニュースが短くなってしまったけれど、やはり不思議な「民主主義国」であることが、報道からも分かる。
 まず、驚いたことが、閣僚が大統領に報告することがまるで儀式のように格式ばって行われ、ニュースになるということ。クレムリンの豪華な調度のなかで閣僚が緊張して大統領にサシで担当事項の進捗を報告するさまは、旧共産主義体制や、あるいは王宮時代を思わせる。
 今朝の放送分によると、コソボ独立に際し、ソルジェニーツィンがセルビア人に寄せるメッセージを出したようだ。学生時代に反共の闘士としての彼の論文を読んで、すごいと思いながらも、どうもそのしつこい筆致が好きになれなかった。冷戦後にそのナショナリストとしての側面がクローズアップされたが、彼がこのような形で体制メディアに利用されるのを見るのは悲しい。もちろん、コソボ側が正義というわけでもないが、同じスラブ系のセルビア人への同情は分かるとしても、コソボの自治権を奪ったセルビアの過去の行為は彼のなかでどう整理されているのだろうか。作家に自らの出自を超える世界的な想像力を期待する私は甘いのだろうか。

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このブログが紹介されました

 EU研究の大先輩である児玉昌己先生(久留米大学法学部)がこのブログを見てくださり、先生のブログで紹介して頂きました。先生は日本EU学会の理事としてご活躍なのですが、同じラテン系?(「軽い」という意味ではありません)ということで、学会の折りなどに私にも声をかけて下さり、感謝しています。このブログの読者の方々にも、ぜひ先生のブログを訪ねて頂きたいと思います。
 先生にも見て頂いているならば、イタリア総選挙のことなどももっと書きたいのですが、総辞職した中道・左派政権や解散したイタリア議会ではないのですが、私の生活も過渡期にあり、少しずつご期待に添えればと思います。
 一つだけ、現在のイタリア政治の状況を過去のブログ記事に補足しますと、これまでの中道・右派の4大政党のうち、旧DC系のUDCがベルルスコーニとの共闘を廃しました。
 したがって、現況は、旧中道・左派が①民主党(再結成される社会党をせめて選挙連合に引き込めるかどうか不明)と②旧共産系左派諸党の「左派=虹」連合に分かれ、旧中道・右派はベルルスコーニ率いる③「自由の人民」(フォルツァ・イタリア+国民同盟)およびそれと合体しないが選挙協力する北部同盟と、上記の④UDCのように別路線にいくものに別れ、すでに国民同盟を離れた⑤「右派」(政党名)が極右と連合、⑥UDCから先に分裂した「白いバラ」と中道・左派から「逆ギレ」離脱(法相だったマステッラ党首の夫人=カンパーニャ州議会議長=の汚職捜査を契機に離反)したUDEURはUDCと中道政党どうしのグループを組むか、組まないかという状況にあり、今回の総選挙は、事実上4つか5つの選挙連合の間で戦うことになりそうだということです。「やそだ総研」の政党解説ももっと分かりやすくしたのですが、なにせ状況が流動的で、なかなか分類が落ち着かないのが、現状です。
 

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旺文社文庫とルビ

 文部科学省の新しい学習指導要領案で、習っていない漢字にルビを打つことを認める方向に方針転換するらしい。私にはまったく分からないのが、これまではルビの代わりに「ちょう戦」のような交ぜ書きをしていたことで、文化庁の文化審議会がその廃止を提言しても、ルビは使用しなかったという。こどもの自習能力をなめていたのか、それとも知識を低い方で平等化しようとしたのか。
 漢字には同音異義語が多く、日本ではそもそも漢字の母国にはない訓読みまで開発し、漢字を意味でいろいろな音に読む(人名に用いたときの自由さを考えれば分かる)のだから、すべての読みを学校で教えることは不可能で、どうしても各自の読書に頼ることになる。しかし、漢和辞典でも多様な読みが出ているから、自分では絞れない。教養ある親がいれば聞く、NHKなどで教養ある人が読むのを聞くなどすればよいが、即効性のあるのがルビである。
 子供のころの私(両親とも働きに出ていて「鍵っ子」だった)を助けてくれたものとして、もはや刊行されていない「旺文社文庫」に今も感謝している。ちょうどまともな文学作品を読むべき年齢(と私が思う)中学に入って初めての夏休み前に、もともと教育現場にセールスが浸透していた旺文社文庫の希望者申し込みの紙が学校で配られて、何冊か注文して読んだ後、自分でも書店で買い始めたと思う。たぶん、一冊目は夏目漱石の『我が輩は猫である』で、当時はそのインテリ的蘊蓄に分からないものも多いままで読んでいたと思うが、意外に楽しく読めた。それは、ルビのおかげである。そもそも明治・大正期の新聞にもルビは打ってあったのだから、当然なのだが。
 実は、ルビは出版社にとってもうれしくない。ないほうが印刷しやすいからだ。旺文社文庫は、もともと教育書の出版社が始めたものだから、ルビの配慮はすごくできていた。解説や資料も丁寧だった。それに従って、たくさんの漢字も覚えられたと思う。
 しかし、同時期に始まった角川の文庫と映画を合体化させた大セールスで、文庫というものの存在は大きく変わった。岩波に代表される教養文庫的なものより、誰でも読めるエンターテイメントが文庫市場の中心になってしまったのだ。
 旺文社文庫も他の文庫にはない、ドーデの『タルタラン・ド・タラスコンの冒険』、マーク・トゥエインの面白話など、有名作家の有名ではない(しかし、その作家の一面をよく表す)作品や、内田百閒ものなど大人の読書通も唸らす独自の路線を図ったのだが、その後いつの間にか発行されなくなってしまっていた。
 私も一通りの読書入門を旺文社文庫でした後、30冊ほどの旺文社文庫は従弟に譲ってしまった。しかし、後にも先にも文庫本の漱石では旺文社文庫の解説がいちばん良かった。商業的な文庫はスター性のある解説者の勝手な思い(それ自体は面白かったりするが)はあるが頼れず、岩波文庫はすごく解説が充実したものもあるが、古典の初心者向きの丁寧な情報は足りない。
 将来お金に余裕ができたら、古本市場とネットで旺文社文庫を全部買いたいくらいである。それを全部読み返す時間はないだろうが、年金生活に入り、頭が弱ってきたら、最後は古典をルビつきで読み直し、正しい読みで読み直してからあの世に行きたいと思う。
 学校には「生きる力」の育成など期待しないでほしい。そんなことまでさせるから、学校の先生が授業を充実できないのだ。せめて、子供が自分でどんどん読書を進める邪魔はしないほうがいい。

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イタリア版「エレクション・デー」

 4月13、14日投票が有力なイタリア総選挙ですが、毎年春から初夏にかけて統一地方選も行われるため、それと同時にすべきかどうか議論があります。アメリカのようにたくさんの選挙を重ねる「エレクション・デー」とするかどうかなのですが、イタリアの場合、投票所で混乱がないか心配があります。
 もう一つの心配ですが、中道・左派の再編がうまくいかず、着々と布陣を固めつつあるベルルスコーニに中央・地方両方で大敗する可能性があります。そうなると、またEU各国と軋轢が出てきそうな。イタリアは本当に大丈夫なのだろうか?

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アメリカの州のニックネーム

 大統領候補予備選挙の報道で、各州に関する記事のなかにその州のニックネーム(その多くは公式のもの)がよく出てきます。これはアメリカ通の方には周知のことですが、やはりこういうところにはアメリカ人のセンスがよく出ています。
 ニューヨークが「エンパイア・ステート」、カリフォルニアが「ゴールデン・ステート」であることは結構知られていますが、デラウェアが「ファースト・ステート(最初の州=合衆国憲法を最初に批准)」、コネティカットが「コンスティトゥーション・ステート(憲法州=合衆国憲法より古い「憲法」がある)」という風に建国の歴史に関わるものや、カンザスの「サンフラワー・ステート(ひまわり州)」のように植物や農産物、オレゴンの「ビーバー・ステート」のような動物、アリゾナの「グランド・キャニオン・ステート」のように地名や地形に関するもの、さらにはその地の人々の性格を表すものなどさまざまです。
 こうした命名でおそらく大事なのは、他の州から異論がないほどの存在感と認知、そしてキャラクターが立ち、誇りや親しみを持てることでしょう。
 わが国で同じことをするのが意味があるか分かりませんが、すべての県がタレントを知事にするわけにもいきませんので、こうした愛称でキャラ立ちをねらうのも一興ではないでしょうか。大事なことはなんでもかんでもでなく、イメージを一点に絞ること。
 私の私案は、山形=「さくらんぼ」県、千葉=「落花生」県は普通ですが、神奈川=「ハイカラ」県(「文明開化」県より分かりやすい、もともと横浜毎日新聞の記者による造語)、静岡=「富士山」県(お茶もあるが、日本人の精神性に関わるので)、山梨=「ワイン」県(葡萄より国際的に分かりやすいイメージ)、奈良=「聖徳太子」県(第2候補「憲法」県)、広島=「平和」県、長崎=「貿易」県(第2候補「カステラ」県)、沖縄=「サトウキビ」県(「ざわわ」の反戦イメージも入れる)などはどうでしょうか。

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「予告された殺人」のような解散

 イタリア議会が解散された。
 またしても「中道・左派の自滅」といえる面もあるが、現政権がイデオロギー距離の大きい政党の寄り合い所帯であると同時に、そもそも上院があれだけ伯仲となっていたのは、2006年総選挙の直前に中道・右派が恣意的に改正した選挙法によるものである。
 この選挙法は、比較政治の大家サルトーリも怒っていたが、財政政策の失敗で当時ジリ貧だった中道・右派が何の合理性もなく、ただ自陣営の議席減を可能な限り少なくさせるように仕組んだものである。これによって、予め状況は限りなく不確実なものにされていた。しかも、この選挙法を早期に改正しなければ同じことの繰り返し。しかし、中道・左派の小政党もむしろ比例代表制への復帰によって議席増となったために、簡単にもとの小選挙区優位・比例並用制への復帰が難しいことを見越してのものだった。結局、間に合わず大統領は解散をせざるを得なかった。
 プローディと中道・左派連合はあらかじめ殺害を予告されていたようなものである。左翼民主主義者とマーガレット連合の統合で昨年できた民主党も単独では、また、ヴェルトローニのような線の細いインテリではベルルスコーニには勝てまい。ベルルスコーニが最初に勝った1994年のように右派と中道と左派の三つどもえで右派が勝つのではないだろうか。そうすれば、イタリアの国際的信頼はまた失墜する。

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規制改革と消費者保護

 岸田特命相(沖縄・北方・国民生活・科学技術政策・規制改革担当)に消費者行政一元化の担当が追加された。消費者保護行政の強化が必要なことは明白だが、規制改革と兼任させてよいものだろうか。今回の追加は一元化担当であって、消費者保護そのものは国民生活にすでに含まれているとも言えるし、政権発足以来、食品安全は泉特命相(国家公安委員長、防災)の担当になっているので、さらにややこしい。規制改革は必ずしも消費者保護と矛盾するわけではないとしても、対立する可能性は考えておいていいだろう。行政改革の視点から大臣の数を増やさないというのも理解できるが、どうも整理ができていない感じがする。

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無料新聞『メトロ』

 90年代末から何回かのヨーロッパ滞在(といっても、ほとんどがイタリアだが)で、イタリアでも、オランダでも地下鉄や市電の駅に置いてある『メトロ』という無料新聞を手にとったことがある。無料(広告のみが新聞社の収入源)といっても、結構ちゃんとした新聞で、タブロイド版で論説などはなかったにしても、日々のニュースは十分入っている感じだった。あのゴッホの末裔でイスラム教徒に暗殺された映画監督のテオ・ファン・ゴッホ氏もオランダ語版にエッセーを連載していたようだ。
 不思議なメディアだなと思っていたが、今回それを教えてくれる本が出た。稲垣太郎『フリーペーパーの衝撃』(集英社新書)である。それによれば、『メトロ』紙の発祥の地はスウェーデンであるという。創業者は学生時代に「新聞経済学」の授業を受けてアイディアを思いつき、既存の新聞社に勤めた後で、投資会社から資金を得て起業したという。こうして見ると、アメリカだけでなく、ヨーロッパにも、起業に役立つ大学の授業があり、また実際に経験を積んでから起業というしっかりとした起業マインドを持つ若者や、その才能をうまく見極める投資会社があることが分かる。
 その後ヨーロッパだけで15ヶ国、世界22ヶ国に広がったというから、私が手にしたのは、その数ある版の幾つかということになる。既存の有料紙との対抗関係にも面白いエピソードがたくさんあるが、それはこの本を買って読んで頂くとして、一点納得できたのは、著者がスペインにも取材して、無料紙台頭の理由の一つに有料購読者数の少なさを挙げているのは、まさにイタリアでも同様なので納得がいった。
 時間やお金のない人に向けてこういう新聞を考えたという創業者のアイディアは、格差社会で余裕のない貧困家庭や、練られた長い文を読めない若者の増加などの日本の現状にも合っているのだが、とても悲しい側面も多い。こういった新聞に載るのは、短く読みやすい記事、つまりは純粋な情報のみで、論説や長いルポなどの余地がない。有料紙を甘やかしてはいけないにしても、テレビやネットなど瞬発的、感覚的なメディアの発達のなかで活字の孤塁を守っているかに見える新聞の基礎がこれ以上危うくなることは心配だ。
 そんな認識は古い、すでにネットで新聞を読む人が多いではないか、といわれそうだが、日本で無料新聞が今ひとつ浸透しないのは、今後のこの国のメディア全体にとって、吉と出るか、凶とでるか?
 

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「68年」の40周年

 今年は、欧米や日本で学生運動、社会運動が爆発した1968年の40周年である。私は30周年の1998年にフィレンツェで行われた、地元を基盤とする知識人雑誌「テスティモニャンツァ(証言)」の公開シンポジウムでイタリアの運動家だったロッサーナ・ロッサンダなどの講演を聴いたことがある。なかなか面白くて、それ以来、1968年はどこか気に掛かっていて、少しずつ本も読み、講義でも必ず各期1回はとりあげる。
 こうした新左翼の動きは日本でもあったのだが、当時まだ幼稚園にも行っていなかった私の世代にとっては、自分が単なる同時代人としてもまったく関わりえなかったという意味での「歴史」である。しかし、一世代上の1950年代生まれの人たちは、当時の学生の主力の「団塊の世代」ほどコミットしていなくても、この時代を10代の記憶として皮膚感覚で理解している人が多い。だからこそ、私の世代は、大学に入ると「新人類」呼ばわりされた。「脳天気なアホ」という感じで、血気盛んな当時は「しょうがないだろ。生まれ年は選べないのだから」と反発したことも多い。
 私がその時代の学生でも運動をしたかどうかは分からない。しかし、この時代の人々の考えや思いを理解したいという気持ちはある。今朝の日経の出版広告に、ブント元代表の荒岱介氏の著書『新左翼とは何だったのか』が出ている。私には未知の世界だが、読んでみたい。
 

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風刺やパロディを楽しめない国、日本

 お笑いのくりぃむしちゅーのコンビが酒を酌み交わしながら知事選出馬を相談するというお酒のCMが地元の知事選が近く、不謹慎だと放送中止になった。もちろん現実のコンビにその気がまったくないことを前提で楽しむCMである。おそらく声を上げたのは、お笑いのこともよく知らないどの候補者かの支持者だろう。まったくユーモアのセンスがない、それ自体、政治家や支持者としての資質を疑われる無粋な話だ。隣県の東国原知事の誕生で神経過敏になっていないか?
 この国では風刺やパロディも楽しめない。このような形式的な「マジメ主義者」は、実は国際的にはレベルが低い。日本では避けるべきという政治や宗教を風刺するのは、欧米では当たり前のことであり、芸能人がそれをするのは格好いいのである。もちろん、今回のCMはコンビ自身立案のネタではないだろうとしても。
 こういうのは、大きく構えて、有田が出ないことを分かった上でユーモアに乗って「私はくりぃむの有田が出馬しても勝つ!私はプロの政治家だ。」という風に堂々としていたほうがよほど好感を持たれるし、メディアも取り上げてくれてかえって有利だと思うのだが。

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