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北京五輪ボイコット論

 チベットのデモを中国政府が軍事的に鎮圧したことで、日本以外の先進各国で中国政府への抗議が続いている。欧米メディアには北京五輪のボイコット論も出だした。もちろん、ボイコットがよいと簡単に言えないが、この議論は実現不可能と甘く見ないほうがいい。欧米各国にとってはそれほど人権は重要なイシューなのである。
 こうした人権やマイノリティーへの日本国内の関心の低さには、逆に驚いている。世論調査すれば、ボイコットへの反対が多数を占めるのではないか。もちろん、その日のために長年練習してきた選手のことを思えば、簡単にボイコットはできない、ということは正しい。現にモスクワ五輪に日米は不参加だったが、欧州諸国は参加した。しかし、新冷戦の対抗関係で起こったモスクワ五輪よりも、長年われわれがそれと知りつつ、手を出せなかった問題ということで、今回のほうが効果も大義も大きい。国家が選手の運命を左右してよいか、政治とスポーツは別だ、という論も根強い。しかし、残念ながら今の五輪は完全に国家と多国籍企業による支援事業だ。より慎重な議論は、対中関係のため、我慢しようというもので、これは国内で相当強い意見だろう。
 しかし、中国のような大国にはいかなる制裁も効果はないし、実際に打てない。経済制裁などすれば、日本のように中国依存の国は返り血を浴びる。その中国の国威発揚に五輪が利用されてることは間違いなく、ここを叩くべきだという議論は、ある意味で、あの大国に何かをさせるには他に手段がないという絶望感にも立っているのである。チベットに限らず、あの国の唯我独尊はどこかで抑制しなければならないだろう。
 スポーツ選手からメダルをとるチャンスを奪うのはあまりに過酷だ。しかし、それだからといって、チベット人が捕らえられ、傷つくのを無視してもいいのか、というのが国際世論なのである。それは、いささか大げさに言えば、かつてユダヤ民族の虐殺を阻止できず、今も多くの少数民族が苦しんでいるのに何もできない、という倫理的な反省なのである。ジャーナリストすら入れないなか、本当に「見殺し」になっている。われわれは五輪をテレビで楽しむためにチベットを無視していいのか、ということは真剣に問われていい。こういう場合、「平和的な解決を」というのは、事実上の無視である。イラクのような軍事的解決が無意味だと分かった今、現地の人を傷つけず、非暴力で抵抗できる手段はボイコットしかない。
 五輪自体も、選手たちのすばらしい努力の影で、理事に高級ホテルを要求するような巨大ビジネス(使途を明らかにできないためか、長野五輪では帳簿が「紛失」した)になっている弊害が指摘されて久しい。しかし、それさえ諦めれば、中国開催を中止し、世界中に会場を分散しても、中国が逆にボイコットしても、真の世界的な五輪を行えばよいではないか。その参加、不参加で人権に対するその国の態度が炙り出される。
 とここまで空想を膨らませてみたが、現実はもっと悲観的にならざるを得ない。むしろボイコットをしても、なお中国はチベットの弾圧をやめないだろうということも十分考えられる。しかし、ものごとは効果がないからと諦めていいものと、効果がなくても意志を表すために「負け」てもいい覚悟でやるべきことがある。
 いくら対中関係が重要でも、人権イシューにコミットできない先進国は、この先も尊敬されることはないだろう。少なくとも、言葉のうえで今回の件で明確に否定的な評価をしなければ、五輪で幾つメダルをとっても、我が国の国家としての評価は上がるまい。
 現在、チベットにいちばん多い観光客は日本人だそうである。今回も、日本人を保護する中国軍・警察という画像が中国側の宣伝に用いられた。一国民に出来ることは、単に危険を避ける意味でなく、あえてチベットには観光に行かないことだろうか。

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