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裏切られる思い入れ

 ゴヤの「巨人」が所蔵するプラド美術館から、研究者が弟子の作品ではないかとの判定を発表。これまで堀田善衛氏ら日本の知識人も、ナポレオン支配への抵抗の象徴である、あるいは、もっと深い人間性への観察である、などの様々な見立てをしてきた作品である。

 もちろん、そうした見立てを今更、馬鹿にするつもりはない。むしろ芸術作品によって深く考えることができたことが貴重である。弟子の作品だとしても、同時代の人間なのだから、同じような思想になっていたかもしれない。

 むしろ、考えさせられるのは、後世の人間の様々な解釈を裏切る芸術作品のおもしろさである。われわれが源頼朝の肖像と思っているものはどうも実は別の、しかも平氏の正装姿であるらしいことはよく知られているが、それでもわれわれは冷徹な頼朝像にあの透徹した顔立ちがぴったりと思い入れをしてきた。作品のほうは長い年月を経て、作者も、それを証明してくれる弟子や後継者ももうこの世にはいないのに、われわれの心をとらえてやまない。

 テレビ東京の「なんでも鑑定団」が、骨董などのお宝が主に見えて、実は、そのモノにまつわる人間のストーリー(偽物を質にお金を貸した人など)が視聴者を引きつけるように、モノに独特の生命を通わせることが人間の人間たるゆえんである。

 世界中にある遺骨を集めると何人分にもなるお釈迦さんやコロンブスの骨(「これはコロンブスの子供の頃の骨です」という古典的ジョークがある)も許せるかもしれない。

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次の課題は...洋菓子

 出勤時に、両手に紙袋を携えた挨拶まわりに行く途中と思われる人とすれ違う。何気なく袋の文字を読むと、「洋菓子 開進堂」とあった。はて、知らない名前だなと、後で検索をかけると、ここからそう遠くない一番町にあるらしい。

 しかし、近くに大使館なども多い名店で、少量限定生産、初めて買うには既存の顧客の紹介による登録が必要らしい。「一見さん、お断り」である。老舗を守るには仕方ないことだろうが、せめて予約が何か月先待ちでもいいし、あるいは限定数までは開店時に行列でも売ってくれまいか。

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イタリアの女性閣僚

 このブログと親サイトでも紹介してきたイタリアの女性閣僚(Politically correctたるべく、ここでは「美人」とは書かないことにします)について、最新号のForesight(普通に書店で売るようになっていたのですね)に、毎日新聞のローマ特派員・藤原氏の記事が出ています。カバーストーリーも、イタリアの毒ワインとゴミ問題。

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畏友2氏に:ラーメン情報

 職場が近所の尊敬する友人2氏に。
 先日、ここに書いた「博多ラーメン・由○(よしまる)」ですが、私が行っていたのは、店名を調べたら、神田小川町店でした。私は帰りに最寄りの神保町で電車に乗らず、隣駅の小川町までお茶の水界隈を歩いて行くのも好きで、ある日、偶然ここに入りました。
 季節限定「九条ネギ・ラーメン」好評とのことで、まだやっています。今日も行って食べました。明日、健康診断なので、替え玉(3つまで無料)だけは断念しました。スープは全部呑みましたので、効果ありませんが。私はここのスープも好きです。
 チャーシュー麺にすると千円ですが、値段だけの味はあります。

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意外な良心的批評家

 熱心に見ていないが、たまたま見るたびに感心するのが、テレビ朝日「スマステ」の「ツキイチ・ゴロー」の映画ランキング。SMAPの稲垣さんが自分の好みで公開中の映画をランキングしている。
 批評と宣伝の分離が進んでおらず、テレビに出る評論家(活字メディアの評論家は本来の批評をされている方も多い)には映画会社の推薦作をそのまま推す人が多いなかで、あのコーナーは出色だと思う。実力あるタレントゆえに許された自由なのかもしれないが、しばしば的を射た表現に感心する。

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「素粒子」は報道でなく、下品な風刺

 鳩山法相を「死に神」に例えた朝日新聞の「素粒子」について、弁護するつもりもないが、報道が一方的であることには警戒感を持つ。
 まず、他のメディアのいう「記事」「報道」は実はコラムであって、あくまで風刺を目的としていること。さらに、将棋の羽生永世名人に関する別の例えから、「永世死刑執行人」→「死に神」となっているシークエンスを外して報道しているのを読むと、実際よりも厳しい例えに見えること。そして、おそらく海外では、死刑廃止・停止(実はアジアでも広がりつつある)がアメリカと途上国を除けば多数派であり、辛口の批評になれていない我が国では受け入れ難いかもしれないが、こうした風刺はあり得なくはないこと。
 もっとも、風刺としても下品であり、直接的すぎて、あまりほめられる出来ではないことは事実だ。しかし、ああいう書きっぱなしの風刺コラムを、特に鳩山氏自身以外の弁護士兼評論家のような人物が、形式的な法律論議だけで、風刺の民主主義社会における意義も考察せずに、報道記事と同様に「名誉毀損」というのは、あまりに大人げない。
 いちばん不幸なことは、ただでさえ、近年の凶悪犯罪に対応した厳罰化で冷静な議論ができなくなっている死刑論議がますます一方的な展開になっていくことを許したことで、朝日が責められるのは、こうした展開を許した、安っぽい風刺をしたことである。死刑論議は言論で真正面から堂々とすればよい。

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来年のサミット議長は、あの人

 今月初、洞爺湖サミットに備えて、福田首相がイタリアを訪問。サミット議長2回経験済みのベルルスコーニ首相がサミットは「家族会議みたいなものだ」と励ましたらしい。
 イタリアの議長としての技量はともかく、過去3回首相となった(逆に言えば、過去2回、左派に負けて下野した)ベルルスコーニは、サミットに関しては巡り合わせがよく、すでに1994年と2001年の2回、ナポリとジェノヴァで議長をしている。ナポリの折りは、当時の村山首相が自社さ連立政権成立の直後の疲労のなかでオリーヴ油を使った料理(村山さんは清潔な政治家なので普段食べていないだろうと噂されたものだ)を食べて腹痛になったエピソードが懐かしい。
 イタリアの議長の順番は、日本の次なので、来年はイタリアで、今年選挙で勝利したばかりのベルルスコーニ首相が、まず間違いなく議長となる。会場はサルデーニャの海上の群島、ラ・マッダレーナ。会場は、群島のなかで最も大きなラ・マッダレーナ島になるのだろうが、隣にあるカプレーラ島は、イタリア統一運動を率いたガリバルディが余生を過ごした地でもある。風光明媚なサルデーニャはベルルスコーニがバカンスを過ごすところでもあり、軍事的にも重要な基地がある。このところのサミットの特徴である、抗議運動やテロの来にくい、人里離れたリゾート地で開催という流れにも沿っている。
 それにしても、このメディア宰相は3度の首相任期に3度とも、一周期8年のサミットに当たるとは強運である。もっとも、サミットについて、日本ほど欧州は大騒ぎしていないが。
 それに比べ、左派は過去15年間で半分は政権を握っているのに、一度も自国開催のサミットには遭遇しない。特に1996年から2001年までは5年間も政権を握りながら、あとちょっと時間が足りず、ベルルスコーニに議長を譲っている。
 このメディアの千両役者にサルデーニャの沖で遭遇する日本の首相は誰か?

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よく分からない+個別争点+不安感=否決?

 アイルランドの国民投票でEUのリスボン条約が批准否決。BBCニュースでは、まずこの法律的議論の分かりにくさへの反発を紹介、ほかに、中絶を合法化するのでは(カトリック国)、中立政策が崩されるのでは(中立国)、というEUの本質でない個別議論と、現状への漠然とした不満・不安感の合算という。
 とすれば、論点も集中していないものを国民投票(イエスかノーが明確に言えないといけない)に、憲法で定めているからと、かけてしまったことになる。NOの投票者の心理が多様で、しかもどこかつかみどころのないものとすれば、再投票などで改善できる可能性も少なくなる。
 アイルランドの国内政治も勉強し直さないと、やはり理解が難しい。今の時点では、どこの国でも国民投票ならうまくいかなくなるという感じだけはあるのだが。

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メタボ検診に関する各党見解

 たぶん、これは既にメディアのいずれかで書かれているかもしれないが、私はこのところ、新しい職場に慣れるのに必死で、新聞もしっかり読めていない。しかし、身近なことで一つチェックを忘れていることに気づいた。
 今月には私もメタボ検診を受ける。間違いなく、ボーダーラインにひっかかる。この大多数は健康な人間を病人扱いする悪法について、各党の意見はどうであったのか。
 連立与党とはいえ、「庶民の味方」のはずの公明党が賛成なのは解せない。民主党は国会の議論で、他の医療制度改革と並んで批判していた。しかし、やはりこうした個別イシューでは、社民党が専門家との会議の様子をYou Tubeにしてくれていて、分かりやすい。このページに付属している「労働環境との関連を無視して、自己責任化している」という阿部政審会長の意見も納得できる。私は9条に固執するこの党の態度にずっと抵抗感を持ってきたが、最近、国内政策について見直している。医学界でも完全な意見集約をせずにこうなったようだが、具体的に誰がこの政策を主導したのか、議員レベルの名前を知りたい。
 しかし、『下流は太る!』という本も出ていることを考えると、形勢は不利か?メタボ検診反対とデブが言っても説得力なしという時代の雰囲気も感じる。確かに、小泉さん以来の首相は太っていない(森さんがメタボ首相の最後か)ことを考えると、日本でもスタイルは決定的な要素になりつつあるのか。
「PRESIDENT」最新号の三浦展氏(『下流は太る!』の著者)の記事は、ちゃんとした食事をとることが、下流転落を防ぐ「階級闘争」の手段と説く。うーん、厳しい。

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人身保護令論争

 なにげなくNHK衛星の海外ニュースを点けたら、米公共放送PBSで人身保護令に関する論争をやっていた。国際法、憲法ともからむ、テロ関連法規で重要なテーマだったが、途中からしか見れず録画も4分ほどしかできず、残念。ウェブに関連ページがあるか、どうか。学部の授業でとりあげるには、難しいか?

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いまどき、B級グルメ

 せっかく、ブログもあることだし、たまにはグルメ記事でも書こうと思っていたが、なかなか感心するものがなくて(もともと高級店にはほとんど行っていないが)書くことなくきてしまった。
 ただ一つ、最近感心したのは「博多ラーメン・由○(よしまる)」の季節限定「九条ネギラーメン」。好評らしく春が過ぎてもまだ続いている。山盛りのネギが甘くてシャキシャキでおいしい。ここだけは、これまで数回行きました。

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追憶の「コクヨ シカ-30」

 学生に文献カードの書き方を教えるために、自分が学生時代に作ったカードを取り出す。すべて「コクヨ シカ-30」という商品番号の5×3カードである。片面が5ミリ方眼、片面が見出しつき8行の罫で、文献カードにもアイディアカードにも使いやすかった。澤田昭夫先生の『論文の書き方』を見本に作り始めたわけだが、数年前にこのカードは文房具店の店頭からは消えた。(文房具店で注文すれば、まだ買えるようである)

 まだ1千枚くらいは手元に残してあるが、日常使うのはもったいなく、未完の博論関係だけに使っている。自分で持っている文献の整理は、カードを書くのがしんどくなって、本はファイルメーカーを使い始めた。

 同じ大きさのカードは他社にもあり、それは今も文具店で売っているが、罫の組み方や幅や色が気にくわなかったりして、どうしても使う気にならない。コクヨの5×3カード、発注して買いだめしようか?。どうも、私的には質のよいほうの商品が小売りの段階で消えていくのが納得できない。

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人生に「イベント」はなくていい

 秋葉原の事件から、ブログを持っている人々も何かしら自省モードに入っているのではなかろうか。犯人が使っているのが携帯サイトであり、短文ではなくそれなりの長さの文をPCで書くことが多い(携帯からも書けるが)ブログとやや性格が異なるとはいえ、書くということで自己顕示的になり、自分で自分を追い込んでいったのであろう犯人の行動を見て、ブログや携帯サイトに疑問を感じざるを得なくなる。
 反論は幾らも可能である。引きこもりがちな現代人が、ブログに何か書くことを作るために、遊園地や公園に行くなど外出を促す側面もある。仲間と疑似社会であってもつながりを作るのも悪いこととはいえまい。
 ただ、とりあえず、人生には「イベント」はなくてもいい、ということを社会全体の雰囲気から教えることは必要だと思う。それは、辛い環境に置かれた派遣労働者の挫折感の分析や、死刑論議よりも重要なことだけは確かである。本人の罪が重要で、社会のせいではない、というのは、正論だが、それでは、一連の事件を説明も防止もできない。まじめな法的な議論だけでもダメだし、かといって、心理学だけに委ねてもいいものではない。社会全体の文脈のなかでの問い直しが必要で、むかし、「朝日ジャーナル」でやっていた「犯罪季評」のような自由な論議が今こそ必要だ。
 みんなで夢を追いかけよう、というのも、考え直すべきところがある。夢がなく、たった一つの夢が破れても(私の好きな歌「誰もいない海」の歌詞)、平凡で地道な人生でも、それはそれで意味がある、ということを、これだけ情報過多の時代で、若い人が理解するのは確かに難しくなっている。
 しかも、その孤独感を癒すかもしれない、ブログや携帯サイトも、大多数は友人などが見れば上等で、無数の独り言の壮大な集積になっている。でも人はそういうものを書く。自家中毒のようになって犯罪をする者も出てくる。
 私自身もこういうブログに意味があるとは思っておらず、ホームページ同様、実際自分でやってみないと分からない、時代の流れや人々の思考法を考える意味もあると思って、続けているのだが、ときどきとても馬鹿馬鹿しく思えてもくる。でも、わざわざ書くのはなぜだろう?
 とりあえず、ここにおいては、他愛もないことだけを無責任に書く、というスタンスで続けたいとは思う。
 ネットができる前の、人に読まれる日記というものの意味を考えるのに、改めて「アンネの日記」を再読したい気がした。反戦ものとして読まれるが、私はやはり一人の人間が、日常のどうでもいいことを含めて、いろいろなことをわざわざ書く、という側面に関心がある。その意味で数年前に出た完全版の日記(アンネが性のことなども書いた部分を入れたもの)のほうが参考になる。

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健康ファシズム?

 少し疲れがあるのか、木曜夕刻に授業を終えた後、大阪時代から時々起きる頭痛で寝てしまう。血管を広げるために少量の酒を飲んで寝たら、金曜午後には痛みが引いて、少し歩くために、教育用の古本調達を兼ねて早稲田から高田馬場まで歩いた。神保町に幾らも古本屋があるが、どうも学生、院生から本が流れてくるというよりは、学界から引退した老人たちから本が流れているという印象の書棚ばかりに思えてきて、これはどうしたことかと目先を変えてみたのだ。さすが、早稲田、過去20年ほどの学術出版トレンドを少し復習できるような気がした。早稲田の学生は本を読んでいる。
 タスポの導入でタバコの販売規制が強くなった。言ってみればタバコ屋の子供でもあった私は、他の家の大人のタバコ代に生活の一部を支えてもらっていただけに、自分では吸わないものの、複雑な気持ちである。今回の規制でも、カードを持ち出せば買えるし、カード忘れの大人の購買が難しくなる可能性のほうが高く、小売店の売り上げが減り、カード発行装置の無駄な需要や、規制官庁の天下りが増えるだけではなかろうか。本当に消費を抑えたいなら、もっと高い税金をかければよい。とりあえず、国会議員は全員、禁煙したらどうか。
 メタボ検診にしても、厳しすぎる基準を作って、規制強化で医療支出を減らそうとしているが、体型も自己責任というのは、アメリカの高級ビジネスマンの哲学ではなかろうか。アメリカの下層社会でも、わが国でも、酒やタバコで忘れたいことが多い労働環境がまだまだ多いのではなかろうか。
 仕事で成果主義、格差を作って追い込みながら、私生活でも同様に規制強化というのは、全体として恐ろしい非人間的政策になっている。ギリギリの生活をしている下層の人は、フィットネスなど行けませんから。安い給料で辛い仕事に耐えてそれを忘れるために安酒を飲んで何とか日々を送る人が倒れたら、救ってやるのが人道でしょう。これは、まったく非科学的な感傷だが、一方で社会科学が十分、考察できているとも思えない。
 私個人は幸いにもいい職場を得たし、健康にも投資できるようになった。だが、フィットネスには行っていないし、スポーツもしていない。主義としてでなく、まだ気持ちに余裕がないだけです。

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夜の書店まわり

 昨夜は、夜の9時から池袋のジュンク堂と目白のブック・オフへ。職場近くの神保町は書店街だが、みな8時前に閉まってしまい、夕方に仕事が終わってから、何か思いついても、間に合わないことが多い。行きやすい新宿だけでなく、最近行かなくなった池袋も少し漁ってみようと思いつく。目的は、3月から延々続いている、学部教育用の図書の購入。といっても、図書館に入れる新刊や流通中の本ではなく、図書館が取引書店から購入できない、版元在庫なしだが、別の書店の書棚には残っているかもしれない本や、市場から消え、完全な古本となっている、しかし教育用にはよい内容の本を私費で買って研究室に置き、学生に貸すためである。古書で買って図書館に寄贈してもいいと思うが、現実には十分中身が読める本でも、本の状態が完全でなかったりして難しいからである。
 内容が散漫で、定価で買うのは馬鹿らしいが、当事者の証言として無視できない、日本の政治家や官僚の書いた本も、そういうものは焦らずブックオフで見かけたときに買う。
 ジュンク堂は、大量の本を、しかも通好みの本もしっかり揃えてくれていて、大阪時代からファンになってしまった。行くと、必ず脱線してしまうが。例えば、ソフトダーツの雑誌というのがあって、これが毎号、旬の女優にダーツをさせてグラビアページを作っているのを見つけて、欲しくなる。でも、グッと我慢。
 もっとマジメな関心では、稲子恒夫(編著)『ロシアの20世紀 年表・資料・分析』(東洋書房、2007)という重い本。これは著者が長年に渡り入手した情報を豊富な解説多数の年表に組んだもので、20世紀を日ごとに巡るような、長大な年表である。研究書でいい本を書くのも大事(この著者は研究書も多数書かれている)だが、こういう基礎作業を学界は軽視していないだろうか。欲しくてたまらないが、個人的には日常で活用しきれそうになく、購入は控える。これは、近年の刊行なので、図書館に是非欲しい。
 ブックオフでは意外な本はなく、必要に合わせて、モサドの活動家の回想録などを買うが、長年入手できずにいた中公新書の『ラ・マルセイエーズ物語』を入手できた。書名から言って、絶対買う本なのだが、刊行時は、ちょうど私が会社員を辞めて大学院の受験勉強に入っていた、精神的にも経済的にもきつい時期で、この時期の本で入手し損なったものが多い。小さな本だが、失った時間を取り戻した感じ。内容は、歴史家の余興でなく、作曲家が丁寧に調べていて、むしろそれがよかった。

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イタリア的こじつけ?

 先日の神戸でのG8環境相会議の記事を読んでいたら、ここでも何度も取り上げたプレスティジャコモ環境相が、ナポリのごみ問題を先進国でも制度が機能しなくなる時があるとして、一種の危機管理の必要性のような形で全体に問うたようだ。

 もちろん、国内問題(行政の不備、カモッラとの関係)と受け取るのが大勢だと思うが、あるいは、それを承知で国内向けにやる気をみせたパフォーマンスであったか?

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