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ついに出た「イタリア史」

 広告を見て、いつ店頭に並ぶかと待ち構えていた、山川の世界各国史15「イタリア史」をついにゲット。今日も三省堂では並んでなく、すずらん通りを歩いて、ひょっとしてと入った東京堂書店で購入。イタリア史はスペイン史と異なり、長らく通史が更新されていなかった。特に山川の世界各国史の場合、本来イタリアにとどまらないローマ史をまるごとイタリアの巻に入れ込んでいるために、更新は難しかったようで、実に32年ぶりの更新である。

 不幸なことに、イタリア史は、現在のイタリアを形作る近現代よりも古代ローマとルネサンスという観光の中心に一般の関心が向きがちなのだが、この本では古代から近世までは他の著者に委ね、スペイン支配期以後現在までを北原氏が一貫して書いている。

 近世の部分もイタリア史の本来の構成であるイタリア諸国家(「古い=統一前の=諸国家」antichi stati、ヴェネツィアなど、都市国家というより領域国家)の歴史から統一へという流れになっている。その意味では本来のイタリア史に日本語のイタリア史が少し近づいた。イタリアの大学では、この統一前諸国家史が一個の科目としてあり、統一以後の基本的に現在につながる歴史と並び立っているのである。

 もう一つ、小さな点でうれしいことは、地名表記。ミラノでなく、ミラーノ、トリノでなく、トリーノになっている。私は学部生時代から、指導教官に指摘されてこう書き始めていたのだが、日本の慣用に反し、やや気取っていると思われることもあった。実際、アクセントは難しく、ジェーノヴァ、ヴェネーツィアのほうはこう書くと間延びする感もあるが、これはこうせずにジェノヴァ、ヴェネツィアとしているのも同感できる。それに反し、イタリア語をまがりなりにも解する人間にはアクセントなしのミラノ、トリノは絶対に気持ち悪い。こういう基本書でしっかり指針を示して頂いたのは、何ともありがたい。

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「非・書く」三原則

 書くネタがないので、このブログの三原則を。

1.勤務先の同僚や学生のことは書かない。ただし、自分が授業でこう工夫しているとか、学生の間でこんなものが流行っているとか、勤務先に限らない大学一般に通じることは書く。

2.研究中のテーマについては書かない。ただし、ネタ探しのためにどこに行った、誰と会った、などは書く。

3.著作権に触れることは書かない。他人の講演などを聞いた場合、要約でも著作権に触れることがあるので、まわりの光景や自分が抱いた印象などだけを書く。

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コッシーガ、南オセチア情勢を評す

 グルジャ・南オセチアでの国際的緊張で、衛星ニュースのロシアのニュースを見落とせなくなった。といっても、早朝のは朝5時台なので、見逃すことも多い。今朝も半分寝ぼけながらみていたが、「コッシーガ」という名前を聞いて、びっくり。

 なんでも、西側諸国(NATO諸国というべきだろうが、俄然この言葉をまた使いたくなっている情勢である)の政治家で唯一、コッシーガ元イタリア大統領が、南オセチアの独立に賛成しているというのだ。

 終身上院議員で半ば楽隠居の政治家を引き合いに出さなければいけないほど、西側諸国にロシアの味方が少ないことの証左だが、イタリア政治を見ていない方々には、いささか奇妙だろう。

 実は、このコッシーガという人、「やそだ総研」では紹介済みだが、大統領職を離れて既に十数年ながら、なかなか油断できないタヌキ親爺なのだ。元キリスト教民主党のリベラル右派だが、実はイタリア共産党の人気政治家だったベルリングェルのいとこで、高齢者が多いイタリアの大統領(憲法で50歳以上と規定)としては最年少、50代で大統領に就任しながら、汚職事件で揺れるイタリア政界の政治改革を進めるために任期前に辞職、「第1共和政の壊し屋」と呼ばれ、終身上院議員になってからも、90年代末には中道小勢力を結集し新党を作り、政権参加、その後解党したほか、スペインのアスナール元首相など、外国首脳とも独自の人脈を持つ。

 それでも、なぜ今回コッシーガの名前が出たのか、分らなかった。そこで、イタリア紙を幾つか当ってみると、以下のような事情だった。

 コッシーガはイタリアの保守的新聞「イル・テンポ」で、グルジャ人の住民が少ない南オセチアやアブハジアを自国内において統治しようとするグルジャ政府を「小さな帝国主義」として批判しているいるのだ。コッシーガは、コソボの独立を認めた西側の過去の政策との矛盾を心配しているだけでなく、老練政治家らしく歴史を遡って、仮にロシアがソ連時代に南オセチアをかなりロシア化したとしても、それは、イタリアが南チロルをオーストリアから割譲させた後、ファシズム期にイタリア系を移住させイタリア化を進めた過去と比べて果たしてより悪いといえるか、というのだ。

 いつも通り、一見へそ曲がりに見える、相変わらずの天の邪鬼ぶりがさすがだが、確かに一理ある。

 

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The West Wing

 私はテレビでドラマはあまり見ない。現実離れした生活描写がどうも好きになれないものが多く、たとえば若いサラリーマンがありえない広さの部屋に住んでいたり(一応、わたしも上場企業の子会社に勤務したことはあるから、給与水準は想像できる)、逆に極端に貧乏な部屋に描いたり、要は、演出のメリハリか、テレビ業界の人の一般からずれた世界認識が露になっていて、落ち着かないのだ。だから、私も好きだった「のだめカンタービレ」のように、それなりに現実の人に取材した漫画を原作にして、コメディ(&ちょいペーソス)に徹し切ったものは、楽しめるが、案外そういうのは少ない。大学の「政治学概論」でたとえ話に使えるかと思って、キムタク主演の政治ドラマを最後の2、3回見てみたが、はっきり言ってダメだった。

 衛星放送を見るためにケーブルテレビと契約したが、おまけについてくる色々なチャンネルも朝日ニュースターの「Democracy Now!」のほかはほとんど見ないが、先週それでも何かないかと思って、いたずらにチャンネルをめぐっていたら、なんと以前、NHKで放送されていた「ザ・ホワイト・ハウス」(原題 The West Wing)がスーパー!ドラマTVというチャンネルで、その続きのシリーズまで進んでいた。これは、NHKで放映時は毎回録画してみていた(当時は塾講師で帰宅が未明になるので)番組である。

 NHKでは、主人公のバートレット大統領(思想的にはクリントンに似て民主党、ケネディと同様カトリック、奥さんは弁護士のヒラリーと違うが医師、年齢的にはブッシュ父くらいの設定)が持病を公開して再選に臨むというシーズン2で終わったが、その後のシーズン4では、再選後に、中東の同盟国「クマー」の国防相が対米テロを企画、これをバートレットが密かに暗殺させるという苦渋の選択をし、その報復か、娘のゾーイ(チェルシー・クリントンに似た年齢設定)が誘拐され、動揺し判断力に不安を感じた大統領が、一時的に共和党の下院議長に大統領職を代行させる(副大統領がスキャンダルで辞職中)という、現実を超える大転回で、久しぶりに見て、びっくり。

 いよいよ今月から第5シーズンに突入したらしい。というのは、まだよく見ていないからだが、残念なことに、これは大学の授業ではたとえ話に使えない。下手に言うと、学生が親にケーブル契約をねだって、そう言っていないのに、結果的に先生が勧めたということになると、不本意だからだ。アメリカ政治のいい教材なのだが。

 なお、このドラマに出てくる秘書のドナの声の声優さんは、八十川真由野(やそかわ・まゆの)さんという方で、有名なアニメでも声を担当されているようです。NHKの「サラリーマンNEO」(番組が国際エミー賞最終候補となった評判は聞いたのですが、見ていません)の男優・八十田勇一さん(たぶん、全国の「八十田」でいちばん有名)と同様、「八十」がらみの有名人ということで注目したのですが、検索すると、お二人とも私と同世代の方々でした。ただ、それだけのことですが、お二人がさらに有名になれば、わたしの名前の誤読が減るので、がんばってほしいのです。

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論述試験の妙味

 成績評価の締め切りが近く、ここ数日間採点づけである。私は大体、苦境に立ったときほど、ブログを気晴らしに書くことが多く、原稿を依頼された人などから、よく苦言を呈される。悩みがある人が他の人に話すと多少とも解消されるというのと同じなのだが、大人らしい弁解はできない。

 試験では必ず論述を課している。学生に試験の時間だけでも集中して作文する時間にしてもらいたいからで、採点の労を減らすためには、本当はやめたい。しかし、特に論理的に整理しないといけない重要事項は、誤解のパターンも分かり、教育する側には次回以降の参考になる。

 たとえば、「集団安全保障」と「集団的自衛権」。それぞれの意味だけでなく、相互関係も書かせると、いろいろな誤解パターンが分かる。

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史上最大のブラックジョーク

 花火はCG、歌唱の少女は口パク、諸民族の子供はほとんど漢民族、と中国政府による五輪開会式でのイメージ操作が話題になっている。諸民族間の平和と団結が一連の虚偽によって演出されていたとすれば、すごいブラックジョークだ。無論、こういう情報が流れてくる程度には、中国にも事実を重んじる人がいて、中国が北朝鮮のような完璧な統制社会ではないことも分かるが、ここまでの作為的なイメージ操作はあきれるというより、恐ろしい。

 われわれは中国を北朝鮮よりははるかにまともな国と認識しているし、それは間違いではないだろう。しかし、事実よりも祖国にふさわしい虚偽を事実として信じ込む(信じ込ませる)、あるいは実際には信じていなくても信じていると姿勢を示す(示させる)ことのほうが大事というのは、北朝鮮の主体思想と同じ発想である。ヨーロッパで日本人学生を拉致した「よど号」ハイジャック犯たちは、男女ペアになっての秘密工作活動で、自分たちが本当の愛情で結ばれたカップルだという「前史」まで念入りに打ち合わせ、それをあたかも真実であると自分で思うくらいに自己洗脳をしたのである。

 こういうときに、ある民放の記者が、現地の中国人に開会式の虚偽について聞いて、「特に問題ない」という回答を多数得ながら、これが政府の情報管理のもとに置かれた人々の一つの決まった答え方だと十分に認識しないで、あるいは認識しつつも視聴者に十分その点を注意しないで(こうなるともっと悪い)報道しているのは、本当に情けない。実際に、テレビカメラに向かって「問題です」と言ったら、その人がどうなるか、という危険性の意識が希薄なのだろうか。若い記者には冷戦期の記憶もないだろうが、それでも本を読んでそれなりに学べば、想像できたはずだ。

 

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カバーの名曲、名曲のカバー

 マックのi Tunesのおかげで、ネットでシングルカットの曲を安価で購入できるようになったが、このサービスに入っていない歌手やレコード会社も多く、この世のすべての楽曲が買えるわけではないし、別の歌手によるカバーしか買えないものも多い。

 ただし、その中にも名唱といえるものはあって、「川の流れのように」をソウル風に歌う、椿(歌手名、同名のロック・バンドもいるようなので、ご注意)のカバーはとてもよい。美空ひばりは文句のつけようがないが、普段聞くには重過ぎる。「翼の折れたエンジェル」の中村あゆみが歌う、ロック調の「愛の讃歌」も悪くない。それにしても、この前、偶然テレビで中村あゆみを見たが、とても美しい人になっていて、びっくり。同世代の私たちの青春ソング「翼の折れたエンジェル」のころはむしろ少年ぽい感じもあったのだが。

 逆に名曲のカバーというか、平原綾香のジュピターの成功に刺激を受けたのだろうか、砂川恵理歌の「ひかり」はトゥーランドットの「誰も寝てはならぬ」(トリノ五輪で荒川静香の楽曲だったアリア)に日本語詞を当てたものだが、こちらは詞と曲のバランスにやや違和感あり。いい歌手なのだが。

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フォルツァ総曲輪・讃

 以前、この欄で書いた、富山市の中心街にできた「フォルツァ総曲輪(そうがわ)」ミニシアターで映画を帰省中に見てきた。ジャーナリストの広河隆一氏が長年にわたってパレスチナを追ったドキュメンタリー「NAKBA」だが、東京でかかっていたときは、忙しさにかまけて見ていなかったので、たまたま通りかかって看板を見て入ったのである。その息の長い取材による重厚な内容に感動した。

 この他にはもはやシネコンしかなくなった県内の映画館事情に対し、若い人たちが立ち上がってこういうよい映画を観る場所を作ってくれたのである。私が見た日は土曜日だったが、この種のまじめな映画としては、20人以上もわりと年齢層の高い人を中心に来ていた。富山の若者も、もっと見るべし。

 ところで、他の都市と同様、富山市も中心街の人口が減って、父の母校である総曲輪小学校はなくなり、他に吸収されたと聞いた。同じ県の高岡市の中心街、末広町の文苑堂書店に至っては、もはや中核店舗ですらなく、地下にあった専門書のコーナーはなくなった。これは、同郷の先人、藤子不二雄氏も通った、高岡市の歴史ある書店である。

 この二つの町の中心街こそ、私と先祖たちのルーツ。毎年、帰りがいがなくなっていく。何とも、さびしい。

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天才バカボンの凄さ

 私も子供の頃は、天才バカボンのファンでした。母方の祖父が町医者で、夏休みなどに泊まりで遊びに行くと、待合室に置いてある漫画雑誌(たくさん見たのに、なぜか、今となっては、ちょっとエッチな「イヤハヤ南友」くらいしか思い出せない)を読んで、そこから子供の小遣いでも買える「ドラえもん」や「天才バカボン」の単行本を買った記憶がある。
「バカボン」はその名に反して、結構、風刺やエスプリの効いた漫画で、小学生にはむしろ大人の世界をのぞき見る観もあった。例えば、今でも思い出せるのだが、作中に登場した、当時人気の「森昌子」の偽者「森日日子」(縦に書くと区別がつかない)を売り込もうとするペテン師など、現実にも似た例があったかもしれない。
 赤塚不二夫氏が果敢にも実存哲学に挑戦したことがあって、その内容が合っているかはともかく、何でも理詰めで哲学的に考え通す早熟の少年が、実はクラスで唯一自分の名前が書けないといって、バカボンたちに平仮名を教わるが、これは「あ」です、と教えると、その「あ」という字は何と読むの、と聞いて、バカボンたちを愕然とさせるという回もあった。文字の「名前」と「音声」は同じであるとは限らない、という懐疑心過剰というか、ほかの漫画ではあり得ない、笑いとともに哲学的なブラックな味があった。
 赤塚不二夫の「作品」、生きている名作の一つであるタモリも最近では「タモリ倶楽部」以外では見られないが、こういうセンスのある人である。紅白歌合戦で冬の背景で黒いマントを着た沢田研二の衣装を「歩く日露戦争」(この表現だったか不確か)と例えたことがあったかと記憶する。要は大人も笑えるということ。それにしても、タモリ氏の弔辞は、透徹した名文だった。弔辞の名文として保存したい。
 朝日の記者の赤塚氏追悼記事もとてもよくて、明日か明後日に帰省の折りには、東京駅で天才バカボンのベスト版を買って乗り込むことになりそうだ。

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北京五輪私的ボイコット宣言

 北京五輪開会式の時間(8月8日8時8分という験担ぎの「8」ずくめも、何か気に入らない)は、敢えて大学で仕事をすることとし、さらに期間中はチベットに思いをはせ、やむを得ず目に入る場合(ラーメン屋などで見てしまうかもしれない)を除き、テレビでオリンピックは見ないことにしました。外国の新聞のネット版には、水泳などの選手のタトゥーが写真で紹介されていますが、誰か「Free Tibet」と入れ墨して泳いでくれないかなと思います。入れ墨だととれません。しかし、競技前から見せていたら失格になるから、スピード社製みたいな長目の水着で勝って腕や足をまくると、入れ墨が出るとか。そうなったら、メキシコ五輪で黒人選手が表彰式で黒手袋をはめた手を挙げたくらいに世界史的場面になります。それで失格にしたら世界から五輪委員会が非難を受けるでしょう。以上、まったくの妄想。
 仕事をするのは、まじめだからでなく、単に貯まっているからです。でも、やはり見る気はしない。本当は五輪開会式の各国の民族色あるステージが好きでバルセロナ、アルベールヴィル、アテネ、トリーノは録画してあるのですが、今回は絶対にパスです。自分でやらないので卑怯ですが、誰かが「フリー・チベット」と叫ぶところは見たい。私は信心は薄いけど、やはり孔子より仏様です。お盆ですし。

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筑波方式、今になって普及?

 学部生時代、全国で自分の通っていた大学(筑波)だけが「学部」「学科」名称を使わず、学群、学類という名称を使っていたので、よく履歴書や願書の書式に予め「学部」「学科」と印刷してあるのを手書きで訂正していたものである。さらに教員組織は「学系」といわれ、特に文科系は教育組織と研究組織が必ずしも一致せず、その学際的教育の理想とは別に、日常的にはその複雑さから様々な不便があった。現在では、筑波の組織はとても分かりやすく再編されている。

 その後、桜美林大学にも「学群」「学系」という組織があることを偶然知ったが、最近、しばらく会っていない友人の所在を確かめるために検索をかけたら、国立大学の独法化、私立大学の競争激化で、全国の大学組織の名称がかなり多様化していることに気づいた。

 院生時代に東大に「情報学環」という学際的な研究組織ができたことは知っていた。筑波方式も少し広まっており、和洋女子大学は今年度から学群・学類体制になっている。驚いたのは、郷里に近い金沢大学も今年度から学域・学類制に移行を開始していること。さらに調べると、驚くのは遅かったと見えて、福島大学ではすでに2005年度から学群・学類・学系になっていたのだった。

 大学の世界から離れた一般の方々からは分かりにくいと思うのだが、こうした編制替えにはそれなりの意味がある。実は、筑波もこういうシステムをとったのは、もともと前身の東京教育大学はその名に反して、文学部、理学部、教育学部、農学部、体育学部と5学部もあったので、新設の医学と体育・芸術を専門学群にして、他を第一から第三の学群(最近、こういう「ナンバー学群」はなくなった)に再編し、それまでなかった分野も含めて、本来学科レベルの位置づけの多数の学類を作り、その学類はまるで一個の学部のようなアイデンティティーを持ちながら、大学部である「学群」に入るようにしたのである。この説明で分かりにくければ、例えば、法学部を単体で作りにくい規模の大学の場合、法学が経済学、社会学などと一緒に社会学群的なものを作り、学科レベルでミニ法学部を法学類として作ると考えればいい。国立大学の場合、全国的なバランスもあり、勝手に組織を拡大できないから、学部数はかわらずに中身を再編するという、今考えると対行政的にうまくできたアイディアだったと思う。

 ただ、全国各地でこういう再編が始まったことには、若干、心配なこともある。学類レベルの独立性が高まると、学群の意味が問われることにもなる(私自身、人文学類は自分の出身学部のような認識だが、第一学群には何の郷愁もない)し、命名によっては、これまでのように同分野の同名学部での比較が難しくなるかもしれない。使い方によっては、本来必要な改革をせず、設備、人材の不足を組織の名称変更でカムフラージュする危険性もある。

 旧七帝大では、学部名に相当のプライドがあり、絶対変えないだろうが、中小の大学、地方の大学では、独立化、自由化のために、今後もこういった名称の改編はまだまだありうるのではないかと思う。冗談交じりに想像すると、学苑、学淵、学船、学荘、学苗、学田、学畑、学場、学叢、学森、学洞、学団、学軍、学海。案外、明治期にはあった「学舎」(現・二松学舎大学)など、いい言葉なのですが。「学空」「学泉」「学源」だけはないな。神の領域だから。

 そこで、いっそ思い切ってアメリカの大学のように学部組織を一本にして、無数の専攻が並んでいる形式をとってはどうだろうか。何学部でなく、自分は何を専攻したという明確な意識を持ったほうが、旧帝大的な権威意識も、新規の名称インフレも払拭できていいのではないだろうか。

 わたしは根っからのヨーロッパ信奉者だが、ヨーロッパの学部区分は、やはりリセやギムナジウムで基礎教養ができているからこその名称ではないかと思い始めた。自分が○○学部の教員であるとか、そういう飾りを捨てて、○○学の教員、と裸で勝負したい気持ちがしている。

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韓国紙日本語版の記事

 竹島問題で日韓関係が危うい昨今、韓国の主要紙の日本語電子版を「やそだ総研」リンクから読む。
 狙いの竹島と違うが、この時期に「朝鮮日報」にいい記事が出ている。我が国の著名な経営学者(アメリカでも高い評価を得ている)野中郁次郎氏に日本的経営について聞いたインタビュー記事で、日本人の一般の読者が読んでも、とても分かりやすいし、勉強になる。
 こういう時期に、このような記事を掲載してくれた朝鮮日報には感謝したい。日韓関係は、けっして竹島だけで決まるわけではないからだ。ただ、日本側には竹島を武力で奪還しようというまでの気合いはないのだが、「独島:日本の『侵脱6段階シナリオ』」などという記事を読むと、ここまでの煽り方はよく分からない。まるで新冷戦の頃の日本での「北海道にソ連軍がやってくる」式の報道並みだ。
 ただ、この「シナリオ」も日本の実際の奪還プラン(たぶん、そんなものはない)をスパイしたわけではなく、過去の他の国々の領土紛争を研究して、日本がそうした事例を最大限利用してくるという形で想像しているのである。このシナリオを発表した博士の論法は、ギリシャ・トルコ間、チリ・アルゼンチン間でこうしたことが起こったから、抜け目のない(ずるい?)日本はこういう手でくるはずだ、というもので、こうした事例は、国際法の復習になるので、この記事は大学の授業で利用したいくらいだ。ただ、これは、逆に日本を過剰評価しているようにも思えてくる。そこまで、日本側も徹底して考えているか、どうかは分からない。おそらく、この学者は「絶対に日本に負けないぞ、だまされないぞ」という気合いで書いたのだろう。
 日本側もよくよく発信の工夫をしないと、韓国側で過剰な日本脅威論がどんどん増殖していく。
 それはそうと、日本の主要紙に韓国語版って、あったっけ?作ったほうが、こういう逆・誇大妄想的な報道への中和剤になると思うのだが。

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ギリシャ風?

 コンビニでビールの「あて」(大阪で知った表現、東京でいう「肴」らしい)に、ベビースターラーメン「ギリシャ風ベイクドチーズ味」を見つけて買う。あとで携帯で撮ったパッケージ写真をアップしますが、どうもこのシリーズには、その味にまつわる各国人のキャラクターがいるらしい。ギリシャ風のキャラはまだホームページには出ていないが、カンフーくんもゴンドリエ(イタリアのゴンドラ水夫)もカウボーイもいる。味は、微妙。

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バルビー映画をみる

 昨夕はクラウス・バルビーの人生を追った映画『敵こそ、我が友』を銀座テアトルシネマで見た。
 前回にここでルーマニア映画を見たときと同様、他の用で銀座に来たのだが、通り過ぎることができなかった。この日は、半蔵門線の三越前で降りて、日本橋から銀座に歩いているうち、しばらく来ていなかったので、界隈の変化に驚きつつ、イッリのバールを見つけて水分補給、文具の伊東屋と本の教文館に向かった。
 文具も本も銀座でなくても買えるのだが、いまどきタイプライターのリボンは普通の文房具店にはないし、キリスト教関係の本のトレンドを追うにはやはり専門書店である。別に信仰に目覚めたわけでも、仏教から改宗しようというわけでもない。学生の関心に応じて、こちらも久しぶりに宗教改革から勉強し直したくなったのである。参考になりそうな本を二三冊買った後、映画の前に、北海道から上陸したスープカレーをブームに2年ほど遅れて初めて食べる。
 バルビーについては、もちろん以前から頭にはあったが、特に勉強する気にはなれなかった。ナチ関連は日本でも研究の層が厚く、そのうち誰かがいい本を書いてくれるだろうと他力本願でいた。しかし、映画はそれ以上にバルビー周辺の貴重な映像が見られてよかった。
 個人的には、バルビー自身が殺害に関わったらしい、フランス・レジスタンスの英雄、ジャン・ムーランのパンテオン入りの式典で、ド・ゴールらが見守るなか、当時文化相だったアンドレ・マルローがまるで朗唱するような演説でその功績を讃えているところが印象的だった。やはりその死にバルビーの関与がちらつくチェ・ゲバラの遺体も写真ではよく見ていたが、動画で見たのは初めてだ。生前から英雄視されていた(もちろん反共側からは犯罪人だが)チェらしく、遺体の上から覆い被さるようにアップで写真を撮るカメラマンの下で、まるで宗教画のキリストのような風貌のチェが動かないのが、寂しい。がっしりした体格かと思っていたが、ボリビアで健康を害したのか、もともと喘息持ちの体質のせいか、肋骨が見えるほど、意外なくらい痩せていた。
 バルビーの弁護士は、確かフセインの弁護もしていた人だが、裁く側の偽善を指摘する彼の発言にも一理あることは否定できないだろう。
 バルビーの前半生の動画は、秘密活動ゆえ、あり得ない。それを証言や周辺の歴史的映像で、かなり分かりやすく描いており、教育的にもよくできている。90分だから、DVDになれば(昨年公開のフランスではもうなっているのか?)大学の授業で見せることも可能だ。

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