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勉強法の季節

 解剖学者の養老孟司氏が東大教授の頃に書かれたエッセーで、解剖科目の授業の日程からご自分にとって春先が「解剖の季節」になるということを書かれていた、と記憶している。
 私の場合は、春先は「勉強法」の季節である。現在では、どの大学でも初年度教育を重視していて、新入生向けに大学での学びの方法を教授していると思う。私もそうであって、特にわれわれ教員は自分の学生時代にこの種の授業を受けてこなかったものが多く、長い時間をかけて少しずつ見よう見まねで習得し、しかも今では息をするように日常となったものを、言葉で説明するのが難しい。
 思いつきになってはいけないので、教案を練るのだが、どの程度まで語るべきかという最大限の質、量と、逆にどの程度まで降りていかないといけないか、という下限がなかなか分からない。自分の習いとなった方法をそのままだと詳しすぎるし、個人的な変な癖まで伝えてしまうことになりかねない。一方で、高校を卒業していれば、われわれの常識ではここまで言わなくてもいいだろうというところも、現状では、あるいは言うべきかもしれないと疑ってみる必要がある。
 さらに伝えるべきことが決まっても、この伝えにくいものをどう使えるか、という教材化の問題がある。実際、何冊か本も見たが、そのままコピーして使えるというものは皆無に近かった。一般的な勉強法のサンプルにあげてあるモノも、何か他人の褌を使うような気がして、気持ちよく使うことができないのである。多くの場合、方法面で優れたところだけ参考にして、実際の材料は自分で探してくることが多い。
 こういうことは本来、当たり前のことでもあるが、果たして全教員がやらなければならないことなのだろうか。専攻の決まっていない1年生には、こちらの専門分野に引きつけるのも少し禁欲しないといけないのが苦痛なのである。決して面倒だからというのではなく、初年度教育のプロという存在もあってよい気がする。でも、新入生ゼミだけ5、6コマというのも大変だし、誰もやらない気もする。遊園地のジェットコースターのように、毎回同じように人を詰め込めばよいわけではないから。

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