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私が死刑について大学で語っていること

 以前から死刑廃止議連で活動していた亀井郵政改革・金融担当相が、久しぶりにこの点について発言していて、ネット上では批判的な議論が優勢のようです。私は特にこの問題について社会的発言をしてはいませんが、このブログをご覧の特に研究者以外の方々のために、死刑に関して、私が大学の授業で語っていることを書いておきます。もちろん、特にオリジナルな意見ではなく、多くの専門家の意見を参考にしたものです。
 家族を殺害されるなど、被害を受けた当事者は、どんな罰を犯人に要求してもいいかと思います。どういう意見を持ってもよく、私も自分の考えを学生には強制しません。しかし、どのような刑罰を科すべきかという国家の法制度のデザインは、国民感情や多数決でなく、専門家の意見を踏まえて、国権の最高機関である国会で公開で十分な政治的議論をした後に決めるべきだと思います。
 特に、国際的文脈は無視できません。世界に比べて犯罪が多いと言えないこの国に死刑が残っていて、かつ今もかなり実施していることには、何らかの説明が必要です。EU27ヶ国はもちろん、これを含みより広い欧州評議会(欧州審議会)47ヶ国が事実上の死刑停止国(法律上残ってても、実施を停止している国を含む、これにはロシアも含む)となっているだけでなく、アジアでもフィリピン、台湾、韓国といった、かつて「開発独裁」といわれた国々が現在、死刑を停止しています。世界では死刑存続派は、特に先進国では日米のみになりつつある、少数派であるという現実はよくよく考えたほうがよいでしょう。
 日本で死刑が執行されると、欧州評議会や国際人権NGOから非難する文書が届きます。彼らのいう、誤った場合に取り返しがつかない刑罰であるから、その方法が残酷だから、という死刑に反対するロジックに十分に反論できるほど、われわれはしっかりした死刑実施の論理を持っているでしょうか。
 犯罪そのものの残酷さでは、これらのロジックには十分な反証にはなりません。そもそも国家によって死刑で殺されるために凶悪犯罪を起こした大阪の池田、秋葉原、茨城の荒川沖(いずれも私自身住んだり通ったことのある町です)の事件もあります。
 もはや、経済面で中国やインドの台頭が明白である以上、これまで以上に人権や民主主義という普遍的な価値に関わっていかなければ、この国の将来はありません。中国は世界最大の死刑実施国ですが、麻薬所持や政治犯でも死刑にするなど、死刑を実施している国と同じように見なされることは、理由がまったく異なっていても、日本の国益にも合いません。そういう区別は、死刑を支持しない人々には最重要の問題ではないからです。
 死刑そのものの執行の仕方の問題もあります。まともな民主主義国ならば、犯罪者にも国家の側が苦痛を与えることは極力避けなければならないことです。十分な時間を置かず突然執行され、しかも薬品等を使わず、苦痛が多い絞首(実は死ぬのは必ずしも易しくなく、死亡まで十数分を要する場合もあります)で行うという手続き自体もよく知られていません。つまり、この点において、日本は薬品等を使用するアメリカの幾つかの州よりも残酷とさえいえます。犯罪者ならどんな苦痛を与えてもいいというのは、江戸時代の仇討ち、敵討ちの感覚であり、こうした復讐、自力救済を退けたのが、近代の法制度のはずです。
 以前から、日本弁護士会が提案しているように、数年のモラトリアム(執行停止)をして、徹底的に議論するだけでも、世界は評価するでしょう。繰り返しますが、死刑を存続するにしても、凶悪犯罪の存在だけでは世界は説得できません。人権や民主主義などの普遍的な価値をめぐっての「一国主義」は、イラク戦争のアメリカの「一国主義」よりも、はるかに問題なのです。
 死刑存続には、相応の論理が必要です。あえて、この点では、私は亀井氏を支持します。
 

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