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希望は義務である

 初めて自分が卒業論文を指導した学生を卒業式で送り出した。当然、こういうときには、私のような者でも「先生からのひとこと」を求められる。最初の卒業生ということで、しゃべりすぎてしまった。しかし、この日のいいところだが、それをとがめる人はいない。
 贈る言葉として引用したのが、イタリア人最後のローマ教皇、ヨハネ・パウロ1世の言葉とされる「希望は義務である」という言葉である。私にこの言葉を教えてくれたのは、私の卒論主査教官であった西澤龍生先生(西洋史)である。卒業式の折りではなく、冷戦崩壊時のカトリック教会のことを話していたときに、ふと教えてくださった。先生は、このシンプルな言葉にキリスト教やヨーロッパ史の独特のニュアンスがあって、その革新性を深く理解されていたに違いないが、私はその理解もなく、誤解も覚悟で、勝手な解釈も入れて、密かに座右の銘にしてきた。
 そもそも、speranzaは確かに辞書的にも「希望」と訳されているが、それぞれの言語での守備範囲は異なる。言語学的な知識を持たない私の印象では、speranzaにはときに、日本語の「希望」以上の、「現状を変革する」というニュアンスすら感じる。(間違っているかもしれないが。)
 現在は希望を持ちにくい時代で、大人が若者に「希望を持て」というには、あまりに若者に優しくない社会構造を作ってしまっている。事実上、多くの人には生涯に一度、新卒にしか完全にオープンな労働市場は用意されていないことなどにそれは明らかである。だから、「希望を持て」というには、「(厳しい時代状況のなかでも)敢えて」という言葉を前に添えないといけないだろう。
 残念ながら、大人は完全に絶望できない。本当に辛いと「絶望した」という言葉すら口に出せなくなるかもしれないが、それでも本当に絶望して、家族などを見捨てて、自死はできない。それは無責任だ。とすれば、どんな状況でも、どんな小さなものでも希望をそこに見いだすのは、われわれの義務なのではないだろうか。
 昨年だったと思うが、東京大学の社会科学研究所が、かつて製鉄業で栄え、その後の産業の構造転換で衰退した街、釜石を学際的に研究した「希望学」という4巻本を出したことが話題になった。釜石に東大のチームが聞き取り調査をしていくうちに、そもそも話を聞いてもらうことで、取材相手が元気になることもあったようだ。しかも、希望を持って動く人はやはり周囲を動かすということが、単に印象論でなく、調査で裏づけられたようである。
 そもそも、ここに引用した言葉も、私の誤解も含んでいるかもしれないが、翻訳は完璧な訳などないにしても、何も重要なメッセージが伝わらないほど、ダメなものでもないのである。
 ところで、実際には、ヨハネ・パウロ1世の言った言葉はこの通りではないらしい。日本語訳も見つからないので、大ざっぱに原文を訳してみる。
「ダンテは(『神曲』の)『天国編』で、自身がキリスト教信仰の試問を受ける場に立たされることを想像している。そこには、複数の試問委員がいて、聖ペテロが『あなたは信仰(fede)を持っているか?』と聞く。聖ヤコブは『あなたは希望(speranza)を持っているか?』と聞く。聖ヨハネは『あなたは愛(carita')を持っているか?』と聞く。『はい。私は信仰も、希望も、愛も持っています。』とダンテは答え、それが実証され、満点で合格となります。私は、これ(希望)は義務であると言ってきました。義務と言っても、それは希望が不快なもの、辛いものだというわけではありません。」
 この後にさらに、この言葉についてキリスト教的な説明がなされる。わたしはキリスト教徒ではないので、その内容は完璧には理解できないが、おそらく、実際の人生にはまるで神が自分を苦境に追い込むかのような、神も信じられなくなるような事態に至ることもあるが、それでも神を信じて(神は全能だから)希望を持つことが、その人の魂の救済につながる、というようなことが書いてある気がする。だから、ヨハネ・パウロ1世の言葉には、やはり神の存在が裏打ちされているから、私の勝手な解釈は、誤解と言えば誤解で、簡単にその証明もできる。
 ところが、おもしろいことに、この教皇は、キリスト教が生の充溢を奪い希望を失わせたとしたニーチェをちゃんと読んで、それに応答していることである。つまり、ニーチェがキリスト教にないと言っているものは、実はあるんだ、と。
 だから、あえて誤解して、私が上記のようなことを述べても、許されると信じている。そもそもこの言葉をキリスト教信者だけのものにしておくのは、惜しい。

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