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パルチザンの歌

 ヨーロッパ統合史を講じるなかで、レジスタンスを話すときに何かオーディオ・ビジュアルはないかと探すが、そもそも地下活動、ゲリラ戦法だったりするから画像は少ないし、イメージを作れるほどのものがない。ムッソリーニによりフランスで殺されたロッセッリ兄弟がモデルといわれる映画「暗殺の森」は録画してあるが、これはある意味で史実に近く、彼らインテリ亡命者の庶民からみれば結構いい生活にも見えてしまうスノッブな面も描いている複雑な作品なので、暗殺場面以外は見せるのが微妙である。
 ただ、音楽には、フランスの「パルチザンの歌」、イタリアの「ベッラ・チャオ」という比較的知られたものがある。「ベッラ・チャオ」に至っては、先日夜遅くに入ったサイゼリアでも流れていた。それには理由があって、日本にもときどきやってくるイタリアン・ポップの女王ミーナ(現在70歳)が来日コンサートでもラストやアンコールで必ず歌うようだ。だから、歌として浸透している。
「パルチザンの歌」もシャンソンの名曲集などに比較的入っている。ただ、これを歌っている歌手については、よく知らないなと思って調べてみた。i Tunesでもアンナ・マルリ(Anna Marly)とジェルメーヌ・サブロン(Germaine Sablon)の2人の録音がダウンロードできるが、特にマルリのほうが時代を感じる(ノイズも入る)古い録音っぽい。実はこれはもともとはレコードでなく、抵抗運動家向けのラジオ放送で、マルリ自らが歌ったのである。最初にレコード化したのはサブロンで、それに続いてイブ・モンタンやジョニー・アリディなどシャンソン、フレンチ・ポップ(ロック?)のスーパースターが録音している。
 欧米の新聞で日本の新聞が絶対及ばないと思うのが、十分に調査され、なかにはこれ専門の記者もいるといわれる追悼記事である。2006年にイギリスの「ガーディアン」が書いたマルリの追悼記事は圧巻なので、著作権に問題がないように内容をまとめて紹介しよう。(私がよく自分の感想や他の本からの情報を混ぜるのは、実はこのためである)もっとも、似たようなことは、フランス史の研究者がすでにどこかで書いているかもしれない。
 アンヌでなくアンナなのは、フランスっぽくないなと誰もが思うが、なんと本名はアンナ・ベトウリンスキといい、サンクト・ペテルブルクでロシア革命勃発直後の1917年10月30日に生まれている。父は「革命の敵」として翌年に逮捕され、処刑された貴族、母はギリシャ出身である。母は乳母車を押してフィンランド国境に行き、服の下に隠した宝石を賄賂として警官に渡し、国境を突破、フランスに逃れ、白系ロシア人が集まる町に育ったようである。
 子どものころから音楽の才能があって、当時フランスに来ていたプロコフィエフに教わった時期もあるらしい。自分で作曲し、ギターも弾け、当時ギターの弾き語りが珍しかったパリのキャバレーで評判をとる。芸名のマルリは、電話帳からお気に入りを選んだという。
 そこからまた国境を越えた冒険が始まる。1938年にオランダ人外交官と結婚するが、ドイツがオランダ、ベルギーからフランスに侵攻したため、スペイン、ポルトガルと逃れ、オランダの亡命政権がおかれたロンドンにたどり着く。夫はオランダ亡命政権の諜報活動に参加、アンナもやはりロンドン亡命中のド・ゴールの自由フランス政府と連絡をとる。空襲後の遺体収集・破壊家屋清掃のボランティアと同時に、活動家に食事を振る舞いながら歌も歌ったことが今日に残る曲のきっかけになった。
 彼女が歌うロシア語の抵抗歌に、ジョゼフ・ケッセルとモーリス・ドゥルオンという二人の作家がフランス語詞をつけた。BBCのフランス向け放送でアンナ自身が歌ったのである。これがフランス抵抗運動で最も歌われた歌となる。アンナはさらに連合国の各国の言語、英語、チェコ語、ロシア語でも歌ったという。解放後のパリでアンナは、ド・ゴール将軍の前で歌い、レジョン・ドヌール騎士章を受ける。
 戦後もこの人の人生は波瀾万丈で、夫と離婚後、ロシアからの亡命者と再婚、アメリカ南部に渡り、歌い続けるが、全米ツアーを行ったシャンソンの女王エデット・ピアフ(このツアーは、マーシャル・プランのお礼参りのような米仏文化交流史の重要な一齣である)にも楽曲提供している。1965年にはアメリカ市民権を獲得、ところが、これで終わらなかった。
 1960年代のアメリカ黒人の公民権運動、欧米の学生運動や社会運動の波のなかで、抵抗歌として再び光を浴びる。レナード・コーエンが録音し広まると、この時代のディーバ、ジョーン・バエズも歌うようになった。この評判が今度はフランスに伝わり、伝記が出版されるなど再評価、2000年のド・ゴール将軍のロンドンでのラジオ放送から60周年行事に招かれる。
 アンナは最晩年には、小さなロシア正教会があるアラスカの小さな町に住んでいたらしい。
 すごい人生だが、授業で語るには、背景の説明に百個くらい注釈が必要になり、時間的に無理である。どの大学でもいいから、一生に一回だけでも「政治と流行歌」という特殊講義ができないかな?
 
 

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