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歴史教育を大胆に再編できないか

 本の街、神田神保町で働きながら、それらしいイベントになかなか参加できずにいたが、昨夕、東京堂書店で、佐高信氏の新著『平民宰相 原敬伝説』(角川学芸出版)のプレゼンとして、佐高氏と加藤陽子氏の対談があった。最初から最後まで両氏のお話はとても面白く、含蓄があった。原敬と犬養毅の比較、小沢や菅など現代のリーダーへの連想、100年経った大逆事件での秋水と大杉栄など、どの話も一瞬も退屈することがなかった。
 そこで考えさせられたのは、加藤教授が『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(朝日出版社)を書かれた理由だ。この本が書かれたきっかけに、加藤教授が高校生に行った授業がある。東大文学部で教鞭を執っておられる加藤教授は、いつからかご自分が教授する3年生以上の学生より若い学生に近現代史を教える必要を痛感されたという。
 ここからは私の個人的な考えで、加藤教授の提起されている問題とは少し違うが、私も学生には早い時期に歴史をもっと選択的に徹底的に学ばせる必要があると思っている。
 高校にあれだけ世界史などの科目が設定されているのに、授業をしていて、歴史が分からないから国際政治の話も何も分からないというリアクションを何回も見て痛感したのは、学生に不足しているのは、必ずしも知識量ではなく、加藤教授の本が与えてくれるような、歴史事象を徹底的に考える機会が少ないのではないかと思った。
 高校世界史の内容構成は、実は今日から見て本当に必要な知識というよりは、かなりの部分、歴史学の業界の勢力分布の反映である。だから、古代も中世も近現代も中国に、イスラムに、ヨーロッパにと、まだグローバルに世界史が連動しないうちから、いろいろ舞台が変わり、かつ必要以上に名辞を覚えさせられるから、それが主になってしまう。しかし、明以前の中国の王朝、イスラムの王朝の知識はどれだけ今日の世界を理解するのに必要だろうか?それ自体の重要性は疑わないが、それは大学で好きな人が学問としてやればいいだけのことだろう。
 民主主義の概念を作った古代ギリシャと中国の古代文明が教育上(学術上でなく)等価だとは私には思えない。それは西欧崇拝ではなく、冷静に現代の世界を動かしている主軸の国々を見極める、いわば、わが国生存のための現実的なニーズである。グローバルな世界史の連動が起きる前の時代は、ヨーロッパをメインに、近代以前の中国やイスラムは文明の特徴でもざっと見て、近現代史を徹底的に学べばいいのではないだろうか。こうした地域や時代の専門である大学教師と高校教員が、あれもこれもと知識を入れ込まないことを望む。
 

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