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ドイツ・オランダの旅(6) アムステルダム

 実は、私が最初にヨーロッパの地を踏んだのは、アムステルダムである。初めてイタリアに語学短期留学したときに、KLMを使ったので、アムステルダム経由となり、どうせなら経由地も見ていけばとストップオーバーにして滞在したのである。
 中央駅を出ると、24年前の最初の留学のとき、親が心配して取ってくれた、駅に最も近いビクトリア・ホテルを見かけて、亡き親たちの愛情を感じた。当時は、直行便でなく、アラスカのアンカレジ経由だったので、朝着いたのだが、ちゃんとしたポーターのいる立派なホテルで、本当に安心できた。自分で予約した今回のホテルは、ここからダム広場まで歩く。ちょうど、駅前の再開発のためにダムラックという大通りは混雑していて、雨の中、スーツケースを引っ張っていくのがなかなか酷だった。
 今回の旅はほとんどがドイツの街だったが、マーストリヒトを入れたためにアムステルダム発着になったのだが、この街でも一つ見たいものがあった。それは、長引いた改築騒動が映画にもなったアムステルダム国立美術館である。昨年4月に改装後オープンとなったのを聞き、これはぜひ見ておかねばと思ったのである。
Amsterdam
 有名なレンブラントの「夜景」も立派な展示のされ方であった。何と言っても、日本の美術館と違い、空間がぜいたくに使われていて、絵画の周りのスペースが大きい。だから、観客は多くても、鈴なりにはならないし、車椅子の人も楽に見られる。むしろ、そこがうらやましかった。
(この項は書きかけです)

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ドイツ・オランダの旅(5) マーストリヒト

 地図をにらみながら今回の旅程を考えたとき、マーストリヒトの名が目を引いた。1992年に締結された欧州連合条約は、その調印地にちなんだ通称をマーストリヒト条約という。その後、アムステルダム、ニースにおける改正を経て、現行のリスボン条約となっているが、初めて欧州連合(EU)という文言が入ったのは、このマーストリヒト条約だったのである。大学でEUについて教える私は、その名をこれまでの人生で数百回、口にしてきたと思うが、そもそもどんな街なんだと思い、行きたくなったのである。
 デュッセルドルフから今回多用している国際特急「タリス」でまず、ベルギーのリエージュまで戻る。この街はベルギーのフランス語圏を代表する街だが、一度来ているので、今回は乗り換え地として通過し、ここから北へローカル線でわずか35分余りで着くのが、オランダ最南端のリンブルク州の州都マーストリヒトである。
 マーストリヒトはオランダでも最も古い歴史を有するというが、地元の人にも、ここはどこかオランダでも特殊な街という意識があるらしい。ホテルの受付で「この街は初めてか」と聞かれたので、「そうだ、オランダは結構来ているのだが」と答えると、「ここは北の方とは違う。私たちはもっとリラックスしている」と返してきた。
Maas
 マース川にかかる聖セルファース橋を渡ると、現代的な商店街で、人が多く歩いていて、なかなか活気がある。少し北に歩くと、市庁舎のあるマルクト広場に出るが、これは名前通り、市場が昔から開かれていたところで、今も露店が出ていた。ちょうど、雨が強くなったので、屋台で魚介のフライを買って、庇を貸してもらう。
Markt
 フライトホフ広場ではペタンクの大会をしていて、この街のメインの教会二つ、この街の初代大司祭にちなむ聖セルファース教会と、赤い塔の聖ヤンス教会はいずれもこの日は閉じていた。
Vrijhof
 城壁が残っていて、大砲も置いてあり、中世都市の面影も十分ある。ある意味でオランダっぽくない。フランスやドイツの同時代の街に似ている。
Maastrichtwall
 地元の観光ガイドは「オランダの美食の首都」をうたっている。それに出ていたフレンチに入ろうとしたが、予約なしでは無理と言われ、駅近くの魚介専門のブラスリーに入ったが、ここも最初はいっぱいで、バーで少し酒でも飲んでいてくれと言われたが、ほどなく予約にキャンセルが出たと席に着けた。魚介のスープも料理も美味だった。
(この項は書きかけです)

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ドイツ・オランダの旅(4) ケルン

 前項で書いたように、本当はケルンに泊まりたかったのだが、いいホテルがなくて、デュッセルドルフから行った。ケルンはすでに24年前に来て、大聖堂とローマ=ゲルマン博物館は見ている。今回も、さすがにあの大聖堂は素通りできず、一通り中を見たあと、ケルン市の観光案内で目を引いた二つの展示を見ることにした。
 一つはケルン市博物館の三十年戦争時代のケルンに関する企画展である。ケルン市博物館は小さな建物で、常設展示は、中世から現代までの街の歴史をたどれる。この街の市長だったアデナウアーの肖像もあった。
 企画展の題名は「不信心なる時代のケルン」(Koeln in unheiligen Zeiten)。ケルンについてよく言われる「敬虔なるケルン」(heilige Koeln)のもじりである。三十年戦争では、ケルンは中立をとったという。ところが、それでも戦争から完全に逃れられたわけでなく、スペイン軍から攻撃も受けていることが絵画から分かった。日本でも国立西洋美術館で展覧会があったジャック・カロの有名な三十年戦争時の絵もあった。
 次に行ったのは、ケーテ・コルヴィッツ美術館である。美術館といっても大きなものではなく、繁華街のノイマルクトのショッピングモールの最上階にある。館名になっている女性画家については、何も知らなかったが、労働者の世界を描いた歴史写真展があると聞いて、ここに向かったのであるが、後で見た常設展示のこの画家の作品から、強い印象を受けた。
 この画家の絵は、労働者の悲哀をとても力強く描いているのだ。そこに描かれているのは、若々しく美しい男女の絵ではない。描かれた裸体も、庶民のやせて疲れた体、労働者の働き混んだ無骨な体、はかない死に瀕した人間の苦悩がにじんだ肉体だ。
 この美術館の入っているショッピングモールのなかのカフェでケーキを食べたあと、午後はケルン観光定番の二つの美術館を回った。まず、中世教会美術のシュニットゲン美術館である。中世美術はイタリアで散々見ているから、驚くことはないだろうと高をくくっていたが、そうでもなかった、特にこれだけの質と量の彫刻を見るのはそうなくて、下手をすると、ルネッサンス前の時代の彫刻はドイツ近辺のほうが上かなとさえ、思った。この美術館は同じ入口で世界の美術を展示するラウテンスクラウフ=ユスト美術館と分かれるのだが、この中世の流れからすぐ行きたい美術館があって、こちらはパスした。
Wallraf
 それは、ヴァルラーフ=リヒャルツ美術館である。いきなり、中世の展示から始まり、最初の部屋は中世イタリアの総復習のような部屋である。私の留学地だったシエナ、フィレンツェ、ルッカなどトスカーナ地方の絵画がある。近世になると、この地の絵画はオランダの影響が強く、途中から、ここはオランダかと思うほど、オランダ絵画が多い。また、18世紀末から19世紀初にはまたイタリアに学べと、この地から多くの画家がイタリアに行ったというから、この地は昔からヨーロッパ的な地方なのかもしれない。残念ながら、現代美術の階は改装中で見られなかったが、十分満足できた。
 ヴァルラーフの展示で面白かったのは、絵の横に掲げられている説明書きが古い絵画でも現代的な関心、視点で面白く書いてあることだ。その解説自体にもタイトルがあって、ビザンツの影響を受けつつも新しい形式を生み出した中世イタリアの聖母子画には「スター誕生」と書かれているし、「聖ウルスラの伝説」は「中世のベストセラー」だった、近世オランダの男女が鳥籠を見ている絵には「甘い誘惑」と題して「一見、二人で鳥を見ている無害な絵に見えますけれど...」といった感じの口調で書かれている。
 この美術館の玄関前の土地が大規模に発掘されていた。何かと思うと、ユダヤ文化の遺構だという。周りに貼られた計画図などからして、並々ならぬ精力を傾けて調査していると思われる。エッセンに続いて、ここでも、この地方のユダヤ人の存在と、それに対する現代ドイツの配慮を感じざるを得なかった。
Jewculture
 (この項は書きかけです)

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ドイツ・オランダの旅(3) デュッセルドルフ

 デュッセルドルフに行くと決めたのは、半ば偶然だった。たまたま、私が利用しているホテル予約サイトでケルンにいい宿がなかった(高いか遠いか、ひどくチープか)ので、デュッセルドルフならケルン同様、あちこち行けるのではないかと思ったのだ。また、旅行中、毎日宿を代えるのはしんどいので、この二つの街は互いに行き来できるだろうから、どちらかで二泊したかったこともある。
 だから、事前の知識といえば、サラリーマン時代に聞いた話、日本企業が拠点に選ぶので、日本人が多いということだけだった。しかし、ガイドを読み始めると、美大はあるわ、大きな美術館はあるわ、でなかなかの文化都市と分かった。ここで幾つかの美術館を見た後で、芸術に造詣の深い友人から、現代美術に関してはヨーロッパ有数の拠点と聞いて、つくづく納得したものである。
 たまたま、宿舎の近くがK20というノルトライン=ヴェストファーレン州美術館の別館のK21というのがあって、そこから見ることにした。しかし、この建物、内部がローマのエウルのような窓切りになっていて、全館が現代美術だった。現代美術の難しいところで、なかなか共感できるものが少ないなか、マリア・アブラモヴィッチのビデオ・アートだけが印象に残った。"Artist must be beautiful."と何回もいいながら、自分の長い髪をかなり強めに梳るのだが、どうもこの人は自分の体を傷つけんばかりのパフォーマンスをする人として有名らしい。出身国セルビアというのが、なんとも。
 K21から本館のK20州美術館へは無料の連絡バスがある。これに乗ると、ちょうど街の中心部に出る形になり、一石二鳥であった。K20は、K21のように最近でなく、20世紀初頭からの現代美術の立派な作品が数多くあり、飽きなかった。レベルは違うが、私の郷里の富山県立近代美術館同様、20世紀のアートを歴史的に辿ることができる。その意味で教育的にも優れている。とりわけ、ピカソは私がこれまで各地で見たなかでも上位に入るようないい肖像画だった。パウル・クレーやマックス・エルンストなどもよし。
 次に、アーヘン同様、ラートハウス(市庁舎)を見て、街の歴史を感じようと歩いて行くと、そこへの道自体が飲食街で、お昼時、お腹が空いたので、あまりビヤホールみたいじゃないところ、と思って、アジア風ファースト・フードの店に入ったが、タイ・ベトナム当たりをベースに「やきうどん」もあったので、それを食べた。
 食後に、ハインリッヒ・ハイネ広場から地下鉄に乗って北へ一駅のクンストパラスト美術館に向かった。常設のコレクションでは、もともと個人コレクションだったものが納められたという古今東西の膨大なガラス器のコレクションはいいものばかりだが、見ているうちに疲れた。一方、企画展の「ゲオルゲ・グロス」展は良かった。20世紀初頭の猥雑な都市文化がよく描かれている、面白い絵だ。これは終了間際で見られて良かった。
(この項は書きかけです)

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ドイツ・オランダの旅(2) エッセン

 アーヘンから再び国際特急「タリス」に乗り、向かったのがエッセン。今回は、デュッセルドルフやケルンにも行くのですが、これらの街をひとまず通り過ぎて、目的地のなかで一番奥にあるエッセンに先に向かったわけです。
 アーヘンでは、駅前のホテルに荷物を下ろすと、すぐにトラムに乗って世界遺産ツォルフェライン炭鉱遺跡に向かいました。このトラムに向かうアーヘン中央駅の地下道に素敵な電飾の壁があって、様々な色に変化し、しかも道も曲線でうねっていて美しかったです。
 トラムを降りると、いきなり写真で有名な、あの「ツォルフェライン(関税同盟)」という字の入った炭鉱のタワーがお出迎え。その奥に歩いていくと、いきなり4階に連れて行く長いエスカレーターがあり、これに載るとルール博物館の入口に着きます。
Zollverein
 この博物館自体が炭鉱施設の再利用で、入口の階にはコンベアや大きな機械がたくさん。それを過ぎると、階下に行く階段は、溶鉱炉の溶けた鉄のように光沢のあるダイダイ色。ここから全部見るのに3時間くらいかかってしまいました。
 まず、目を引いたのは、庶民の生活史的なアプローチによる、この地域の歴史の展示である。特に宝物でもないものが展示されていて、何かと思うと、それが実はこの地域の普通の人々の歴史をよく著しているのだ。
 例えば、かつてデパートでは、この地方に工場もある帽子がよく売れた。その売り子の女性の物語を、当時売られていた帽子(特に豪華なものではない)が語る。また、この地方のビール醸造技術者のハンスさん(中国の主要民族である漢族の「漢」=ハンと音が似ていて、それがよかったという)が引退後で中国で指導したビールが大成功、そのビールのラベル。イタリア人移民は自分たちの守り神に聖アントニオの像を造ったが、その像。
 この地方の石炭と鉄鋼については、詳し過ぎるくらいに勉強させてもらった。クルップ、テュッセンというこの地方の主要企業を興した企業家たちの立派な肖像や彫刻もある。フランスがルール進駐したときの反発を示すビラやポスター、ヒトラーとムッソリーニがこの地のクルップ社を訪ねたときの映像も、目を引いた。
 エッセンの街なかには巨大なシナゴーグがあり、この地のユダヤ文化について考えさせてくれます。ガザ侵攻に対する抗議に備えてか、表には警察がテントを張っていました。
Essensynagoge
(この項は書きかけです)

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ドイツ、オランダの旅(1) アーヘン

 今回の旅は1週間ほど、ドイツとオランダの6都市を、8月12日から18日の7日間で回りました。実際には11日に日本を発ち、アムステルダムに同日午後着、そのまま特急に乗ってブリュッセルで寝ているのですが、この街は何回も来ていて地理が分かるので、翌日の乗車時間を短くするための中継点に使い、そこからが旅の本番、最期はまたアムステルダムから飛行機に乗ったので、日本着は19日となったわけです。
 もともと、ヨーロッパの政治と歴史を教える仕事とはいえ、ドイツやオランダは専門のフィールドではありません。しかし、単に一国のレベルを超える全欧州的な重要性を持ったものは、ヨーロッパ理解には外せません。今回の場合、カール大帝の没後1200年で、フランク王国の都だったドイツの国境近くの街、アーヘンに行こうと考えたのが、旅のアイディアの始まりでした。
Karldergrosse
 今回の旅は、初めから雨降り続きでしたが、アーヘンの街を歩き始めると、少し晴れ間となり、観光案内所のある広場で、屋根付きガラス張りで上手に公開しながら見せている古い教会遺構が今回の最初の見物でした。
Relique
 カール大帝展は三つの会場で行われていましたが、そのうちのメイン会場ともいえるラートハウス(市庁舎)は大変立派で、ここで毎年、欧州統合に貢献した人物に贈られているシャルルマーニュ賞の記念額もありました。最新の受賞者はファン・ロンパイ欧州理事会議長(いわゆる「EU大統領」)です。
Aachenrathaus
 もちろん、カール大帝にまつわる様々なものの展示もよいのですが、このラートハウスの壁に描かれているカール大帝の業績を讃えた絵を字幕の説明と対応して、プロジェクト・マッピングで関連部分を照らしているのもよかったです。
 一方、現代的なビルであるシャルルマーニュ・センターには、中世の教会関係の文化財や後代のカール大帝神話の形成に関する展示がありました。カフェがあったので、ここで一息つくと、その名も「カールズ(Karl's)」とどこまでも、カール大帝づくしです。
Karls
 第三の会場は教会の宝物館のようで、ここにはあの有名な金ぴかのカール大帝像その他が展示されていました。
 展覧会のカタログは、分厚い3巻本で、とても買って持ち帰るには嵩張ったので、「権力」全2巻のうち論文集のみ購入し、「権力」と「美術」の展示カタログは、後でネットで買うことにしました。これらはドイツ語のみですが、もうひとつ4カ国語のダイジェスト版があり、これは手軽で概観もしやすいため、英語版を買いました。
(この項は書きかけです)

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