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沖縄の旅 (2)

 今回の最大の目的だった基地観光をした。もちろん、米軍が見張っているようなところで見るわけではなくて、基地外の誰がいてもよいところで、遠巻きでも「見える」場所から見るのである。ただ、自然に「見える」わけでもなくて、後で述べるが、おそらくは日本側の意地もあって、基地が見える場所に見えるようなものが作ってあるのである。
 9時前に約束したハイヤーの運転手が迎えに来た。朴訥な人だが、各地で降りて簡単に案内をしたり、現地の情報を教えてくれる。最初に北上し、嘉数高台公園に向かったが、その途中で那覇の「新都心」と呼ばれるところを通った。これは米軍から返還された土地で、もともといい場所を米軍がおさえていたので、すぐ高級マンションなどが立ったという。付近一帯のかなり大きな土地だったらしく、ショッピングモールや県の博物館・美術館も他県でもあまり見ないほど大きなものが立ってくる。この辺の町名「おもろ町」は琉球歌謡の古典『おもろさうし』から採られたという。
 嘉数高台公園はもともと太平洋戦争で激戦地だったところで、今は米軍の普天間基地の滑走路の延長線上にある。ただ、すぐ近くにあるわけではなくて、公園との間に住宅、企業、学校などがたくさんあり、これが沖縄国際大学へのヘリ墜落でも明らかになった、街中の危険な基地という特徴である。公園は高台にあるので、遠くまで見え、住宅などの向うに基地も視界に入るのだ。逆に言えば、遠くにあっても、十分見える大きさがあるくらい、基地はそこそこデカいということでもある。
 この公園は基本的には激戦の慰霊地的な存在で、100段ほどの石段を上ると、展望台のほかに幾つか慰霊塔もある。特に「京都の慰霊塔」というのが立派である。なお、石段の途中には左に入っていける道があって、この奥には日本軍の陣地壕だったという洞窟が見られる。3階建ての展望台の2階にはラジオと双眼鏡持参のおじさんが二人いたので監視活動かと思ったが、運転手がそうかと尋ねても「そうでもない」という。ヒマつぶしなのか、真剣な監視なのか、今一つ分からなかった。
 展望台から見ると遠くに普天間基地の滑走路が見え、またオスプレイがたくさん停まっていることは肉眼でもかなり分かる。ただ、カメラを構えても小さく見えるだけ、かなりズームアップしないと、それと分かる写真は撮れない。
 この展望台は各階が円形で周囲を360度見えるようになっている。基地と違う方向には海が大きく開けて見え、港があり、昔この辺が琉球の物流の中心であったことが分かる。また、米軍が北谷あたりから上陸してくるのがここからはよく見えただろうと思われる。
 この展望台の近くには旧日本軍の使ったトーチカ跡があって、かなり傷んでいるが、銃座の位置などは十分に分かるし、鉄筋の一部が欠けたコンクリートから浮き出てしまっているのも見える。石段を降りたところには、弾痕が残る塀がある。もともと一つの建物の塀だったのだが、残った部分が自立できないのか、周りを固めて固定している。
 再び国道58号線を北上するが、特に右側に米軍基地のフェンスが多く、嘉手納基地周辺に入ると、これがずっと続く。また途中からは、道の左側、つまり海側にも燃料タンクなどがあり、道路が両側を基地で挟まれるようになる。嘉手納基地が広大なのは、この縦方向の長さでも分かるが、後で横方向も長いことが分かる。
 嘉手納の弾薬庫と基地は瓢箪型につながっていて、真ん中部分のくびれのようなところの基地外の土地に作られたのが「道の駅かでな」だ。4階建ての建物の4階に展望台があり、ミリタニーマニアが写真を撮りに来ている。これができる前は「安保が見える丘」というところから沖縄の人たちが監視していた。日本側の意地のような感じで建てられた気がするし、よく米軍がこれを認めたなと思う。「道の駅」なので、1階で土産物を売っているが、戦闘機の写真や米軍のマークが入ったTシャツも売っているので、まじめなような、お気楽なような、不思議な感じである。
 展望台に立つと視界いっぱいが基地だ。長い滑走路が横に走っている。遠くには大きな格納庫がたくさん。修理に使うのか、とりわけ大きな格納庫も見える。ただ、私が着いたのは9時台で、飛行機は輸送機らしいものが2機あまり見えるが、戦闘機などは見えない。どうも10時過ぎから米軍の演習などが始まるらしく、ミリタリーマニアたちは椅子に腰かけて、まだ自分たちの仕事の時間ではないとでもいうかのように、寛いでいた。道の駅の前には騒音計があるが、基地を囲む木々も基地を隠すというより、騒音軽減の目的だという。
 道の駅の3階には学習展示室があり、基地ができる前の嘉手納のジオラマや、過去に飛来した、あるいは今飛来する軍用機の種類など、いろいろなパネル表示があった。とりわけ、嘉手納町の領域の83%ものが基地で、北部の弾薬庫と南部の基地に挟まれた残りの細長く狭い土地に住民が押し込まれている現状が写真地図のパネルで見やすく表示されていて、沖縄でも他に例をみないような、ひどい状態である。しかも、基地は嘉手納町だけでなく、北谷町や沖縄市(旧コザ)の一部にも及んでいるのだ。
 焦点の基地を二つ見たあとは、やはり辺野古を見たくなる。ただ、辺野古はここから数十キロ先とやや遠いので、契約した5時間の中で帰ってこれるか分からなかったが、ここまで来て見ない手はないと、高速料金をこちらが支払うことで行くことにした。この「道の駅」を出てからも、嘉手納基地の間の道をいろいろなものを見ながら、ようやく基地の外に出るのだが、建物には当然、英語でFire Stationなどと書いてあるのである。途中、Stray Animalsという字も見たが、基地内の野犬等の処理だろうか。
 小一時間、自動車道を走った後、辺野古崎はどこから見るのだろうと思ったら、キャンプ・シュワブのフェンスから少し砂浜を挟んだところに小さな漁港の堤があり、これが海に向かってまっすぐ伸びているので、その先ならフェンスを視界から外して辺野古崎がよく見えることが分かった。この堤に立つと辺野古崎は十分に見えるし、その近くにある二つの小島も確認できた。印象的だったのは海の色で、エメラルドグリーンなのだ。ジュゴンも来ると言われたのも分かる。
 雨で濡れた砂でハイヤーを汚したくなかったので、私は堤は越えなかったが、若い人たちはフェンスまで砂浜を歩いて行っている。フェンスには抗議の横断幕が付けられているが、メッセージはこちら向きに書かれている。米軍に見える裏にもメッセージが書いてあるかどうかは分からないが、何か変な気がした。ただ、よく考えると、辺野古移転は日米両政府の合意だから、日本政府に向かっても抗議して当然なのである。
 この小さな漁港には監視のための基地として「テント村」があり、この日も何人かいた。ここは、抗議の場所でなく、ベース・キャンプというか、休憩ポイントという感じだ。車に乗り、陸側に入り、左右両側に基地がある道路を車で通ると、基地のゲート前の向かい側の道に抗議のためのテントが張られていた、「テント禁止」の看板にもかかわらずテントが幾つか張られていたが、この日は沖縄の人たちが大事にしている、祖先を送り出す旧盆の最終日なので、誰もいなかった。幟の中に「沖退教」という文字もあったが、これは退職教員の組合だろう。
 辺野古までの行程はスムーズで、正午過ぎには見たいものは見た感じになった。契約は5時間なので、運転手の提案で海岸の名所があるというので任せることにする。上述したように、この日は旧盆の最終日で、途中でエイサーを踊る人たちを見た。運転手は普通、夜に踊るもので、昼は珍しいと言っていた(これについては後で違う説を聞くことになる)が、もともと旧盆最終日に踊るものだったが、何日も踊るようになったという。中に面白いメイクをしている人がいたが、これは西洋でいえばピエロのような道化役らしい。とても良いことに、若い人が踊るのが盛んらしく、もっともあの踊りは若くないと踊れませんけどね、という話だった。
 名護市から北部の海岸をぐるぐる行った先の恩納(おんな)というところにあるのが「万座毛」という石灰岩の断崖絶壁である。後で調べると沖縄本島有数の景勝地らしく、中国、韓国の観光客が多かった。天皇・皇后両陛下も来られたらしく、歌碑がある。ところが、駐車場の両脇のお土産屋さんは全部、旧盆の最終日ということで休みである。
 断崖の上に曲がりくねった遊歩道があるが、特に写真ポイントになっているのが、ゾウの鼻のような形の岩が見える場所である。また、ビーチに面した方を見ると、全日空の大きなリゾートホテルが立っていた。プライベートビーチと付近にこの景勝地、よくできたホテルである。ご丁寧にというか、ビーチの前の海中にはどこぞの夫婦岩のような対の岩まであって、しめ縄が張ってある。
 「万座毛」の「毛」とは草原という意味らしく、ここにはアダン、ソテツなど南国の野趣あふれる植物も生えていて、昨日、平和祈念公園の資料館で知った、沖縄の人が飢餓の際にソテツまで口にしたという話をすると、運転手がソテツには毒があり、食べるにも水にさらして少し寝かさないといけない、それも待てずに口にした人が多く死んだと教えてくれた。
 また、「琉歌の里」という看板が気になり、聞くと、短歌でもないが、独特の節回しで歌うものだという。三線も使うらしい。私が都都逸のようなものか、と聞くと、その例えがあっているかどうか分からないと答えた。有名な女流歌人がこの辺にいたらしく、記念碑がある。ここでいい時間になったので、沖縄自動車道に乗り、終点の那覇まで南下した。
 首里城公園でハイヤーを降り、1時過ぎになっていたので、まず公園入口のレストランでソーキソバを食べた。首里城は外観はなかなか趣があるが、観光客たちが言っていたように、やはり中国に似た感じがする。しかし、内部はあまりにもきれいに観光化されている感じがして、今一つしみじみと歴史を感じることはできなかった。面白かったのは、最後にお土産を買ったら、お釣りに守礼門が描かれている2千円札をもらったことだ。どうも2千円以上のお釣りに一枚入れるように準備してあるようだ。本土ではあまり流通していない2千円札が沖縄ではこういう観光的ニーズなどで結構使われていると聞いた。
 首里にはモノレールの終点があるが、首里城公園からは少し距離がある。運よく、入り口に空車のタクシーがいたので、ひとまずホテルに戻ったが、運転手にエイサーについて、先のハイヤーの運転手から聞かなかったことを聞いた。エイサーが若い人にも盛んなのは、コンクールがあるためで、そこには現代風にアレンジしたものも多いという。どうも、高知のよさこいのような感じで流行っているらしい。先に見た道化役は「京太郎」(ちょんだらー)というらしい。
 この伝統芸能は、本来お坊さんが先導する念仏踊りで、そういう古い形のエイサーも一部の地区に残っているという。後は私の聞き書きなので、正確な内容は文献と対照しないといけないが、どうもエイサー的なものの起源となったお坊さんは京都から来たらしく、もともとは東北出身だったので、福島の「じゃんがら」という念仏踊りに似たところがあるという。また、昼にエイサーを踊るところも結構あると聞いた。

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沖縄の旅(1)

 沖縄に来た。那覇は意外に大きな街で、市域にいる間はずっと建物しか見えない。糸満行のバスに乗ったが、隣の豊見城に出るまで、畑も農園も見えなかった。おそらくは20個以上のバス停を経て、糸満バスターミナルに着いたのは小一時間後だった。このバスターミナル、実際は都内でいう「車庫」に近い。決してつくばセンターのようなターミナルではない。タクシー乗り場もない。まぎらわしいことに目の前が自動車学校で、練習用の車はたくさん走っている。ここから平和祈念堂行のバスに乗り換えるつもりであったが、次のバスは1時間半後。電話ボックスに入り地元のタクシーを呼んだ。
 平和祈念公園はなかなか大きな場所で、どこから見ればいいか分からなかったので、まずは資料館に入った。琉球処分から始まって、沖縄の苦難の歴史がたどれる。特に心が痛んだのは国が沖縄方言を禁止しようとしたことで、生徒が学校で方言を使うと罰に「方言札」というのを下げさせられた、その札が展示されている。改姓改名運動もあり、当時の新聞を見ると、国側は沖縄の姓を珍奇なものとバカにしている。特高はユタも捜査対象にしたらしい。ただ、柳宗悦という人はえらい人で、そういう時代に沖縄に来て、人々に沖縄独特の文化を守るよう説いて回ったらしい。それを国側の警察長官が批判している。
 特別展示で沖縄と日本が委任統治していた南洋諸島との関係を取り上げていたのは勉強になった。結局、あの辺の島でグアムだけがフィリピンの延長のようにアメリカ領で南洋諸島に食い込む感じで位置し、第二次世界大戦で激戦地になるサイパンやトラック諸島などのミクロネシア、後でアメリカの信託統治領となって独立する島々に、沖縄からたくさんの人が行き、また戦争で犠牲になっていることも分かった。
 戦争中の話は痛ましいこと限りないが、沖縄独特のあの建物のような墓が、沖縄の人の隠れ家や米軍の陣地にもされたことが分かった。当然、両軍の攻撃で破壊されたわけである。戦後のアメリカの統治下もいろいろな事件があるが、B52が落ちたり、サリンを含む毒ガスが貯蔵されていて、事故もあったようで、本当に痛ましい。
 資料館から出発したのは間違いでなく、すぐちょうど奥が平和の礎になっており、そこから丘を登ると、各都道府県の慰霊塔がある。もちろん親戚などの犠牲者はいないが、やはりこの地の果てまでやってきて亡くなった同郷人がかわいそうで、お祈りした。
 4時前に見学を終え、バスでひめゆりの塔へ。前から「ひめゆり」って花はないよなと思っていたが、展示を見て並び立っていた二つの女子学校の校誌のタイトルがそれぞれ『乙姫』『白百合』だったらしく、校誌の統合でそういう名前ができたらしい。塔は小さなもので、その背後にゴツゴツの岩肌が出たガマ(洞窟)がある。この地は南に敗走する日本軍の野戦病院の「第三外科」があったらしい。資料館の展示を見ると、この地に多いガマに作られた野戦病院も、戦争の展開や死傷者の増加で次々と分室を作っている。動けない重病者を置いていかざると得なかったり、助かる見込みのない傷病者に青酸カリ入りの牛乳を飲ませたりしたらしい。医療が整わないので、手足の切断はよくあり、そういう過酷な場で看護を女子学生がしていたわけである。途中で降伏すればいいものを、最後の最後になって、戦場のど真ん中で解散となる、本当にひどい話だ。

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「やそだ総研」HP消失の理由

 一部の方から関心を寄せていただいていた「やそだ総研」のホームページは現在ウェブ上に残っていません。プロバイダがホームページのサービスを廃業したためで、引っ越し先を探しています。何かまずいことをしたり、炎上したわけではない(そんな人気はもともとない)ので、復活したら、この頁でご案内します。

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姉妹都市の組み合わせの妙

 ドイツを旅行して、ミュンスターの教会前に有志の人が「ヒロシマ十字」なるものを花で作っていたり、ハノーファー市庁舎で「ヒロシマ展」などが開催されていて、感心したのだが、いささか勉強不足だったのは、広島がハノーファーと姉妹都市だったことを知らなかったことだ。
 姉妹都市は、必ずどの国とも組むようなものでもないし、単に街の性格の類似性だけでなく、きっかけになった出来事や仲立ちになった人などにも影響されるから、正直なところ、必ずしもベスト・マッチではないのではと思うものも、大きなお世話だが、ないわけではない。ただ、もともと、イタリアやドイツのように、一つの街にいろいろな機能が集中していない、街々にそれぞれの表情がある国の街は、日本のどこと組んでいるか、興味が湧く。
 ちなみに、ドイツと日本の組み合わせは、ベルリン=東京、ハンブルク=大阪、ケルン=京都は、文句の付けようがないし、ミュンヘン=札幌、マイセン=有田も理由はすぐ想像できる。ただ、港町では、リューベック=川崎があっても、横浜や神戸は特に相手はいないようだ。その中でハノーファー=広島はやはり目を引く。それぞれ、ニーダーザクセン州の州都、中国地方の中心都市と、国レベルでの重要都市だが、戦災で激しく破壊されたという点でも精神的な共通点を持っているのが、興味深い。
 一方、イタリアと日本だと、ローマ=東京、ミラノ=大阪、トリノ=名古屋、フィレンツェ=京都といった納得の組み合わせのほか、ナポリ=鹿児島、サンレモ=熱海、ビエラ=桐生、ファエンツァ=土岐などは理由がすぐに思い浮かび、なるほどといった感じだが、サレルノ=遠野、ソレント=熊野、マントヴァ=近江八幡、ヴェローナ=長浜は面白いと思った。でも、ジェノヴァと横浜、神戸あたりで組めなかったの、とも思ってしまう。

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歴博で日独修好150年の展示を見た

 今週後半は天気が悪そうなので、国立歴史民俗博物館(歴博)の企画展「日本とドイツをつなぐもの 日独修好150年の歴史」を見てきた。佐倉に行くのは小旅行だったが、内容は充実していた。
 この展覧会があることを教えてくれたのは、ドイツ大使館のfacebook記事だった。それを見て、すぐ思い当たったのは、昨年、大学院でイギリスからの留学生に幕末・維新外交を講じたのだが、そのとき参考にした本のなかの一冊、福岡万里子『プロイセン東アジア遠征と幕末外交』(東京大学出版会、2013年)だった。プロイセンはヨーロッパでは後進国で日本への働きかけも英米露などより遅れたし、まだドイツが統一される前で、プロイセンの外交使節は様々な領邦国家やハンザ都市まで代表していて、交渉相手となった日本側が困惑したことなども書かれていて、ドイツでの史料研究を経た専門的な博論研究の成果なのだが、史書としても楽しく読める本だったので、よく覚えていたのだ。
 実際来てみて、ビラを見て知ったのだが、福岡万里子氏はこちらにお勤めだったようで、期間中にこちらで講演もされている。展示も幕末から始まっており、プロイセン一国相手と思ったら32か国も代表しているとわかり、交渉難航からか外国奉行の一人が切腹したり、プロイセン側からも混乱を避けるためにハンザ都市から天皇への手紙を渡さなかったなど、初期の交流が滅法面白い。
 私の教育上の知識として勉強になるものが多く、まずは外交文書。日普修好通商条約、日独防共協定、日独伊三国同盟条約には「複製」と書いてなかったが、あれは原本なんだろうか。また、大学で教える者として、明治以降のドイツ留学生に関わるもの、あるいは日本に来たお雇い外国人に関するものも面白い。
 展示は時代を追って、第1次世界大戦(当時は欧州大戦への参加でなく「日独戦争」と意識されていたらしい)によるドイツ人捕虜の国内収容関連の品々から、やがてヒトラー時代に移り、ヒトラー・ユーゲントの来日時の映像なども面白く、戦後はどちらも敗戦の瓦礫からの出発、吉田訪独、アデナウアー来日と続く。
 近現代史の勉強になり、国際関係論を教える私にも、日本と国際社会の出会いとその後の日本外交について学ばせてくれるよい展示だった。この企画展は長崎や鳴門といったドイツとの交流のある街を回ったあと、来年、横浜に戻ってくるらしい。

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ドイツ北西部の旅(7) ハノーファー

 最終地点は起点のハノーファーである。この街は、イタリアでいうとボローニャのように、いろいろな街に行く路線が交わる交通の要衝でもある。この街にも少し思い入れがあることは、少し前にここに書いた。ただ、この日は月曜日、博物館や美術館の類は休みである。月曜も開いている大きな見どころといえば、街はずれにあるヘレンハウゼン王立庭園である。ここは広大とあるから、ちょうど午後から半日かければだろうと踏んで、向かった。
 ところで、ハノーファー中央駅前の地下街はすごく細長く、駅の奥から手前に向け一直線につながっている。地下鉄の中央駅はドイツ鉄道の中央駅の正面口から見ると反対の奥まった地下にあり、一方、地下街は前方に長く延び、次の駅のクレプケまで続いている。そして地下鉄の中には中央駅には向かわず、クレプケを通る路線も多く、むしろここが地下鉄の中心駅のようにも見える。このクレプケから4番か5番の列車に乗ればヘレンハウゼンに行けるはずだが、方向を間違えないかが心配だった。海外ではどこでもそうだし、日本に来る外国人も同じ目にあっているだろうが、「~方面」という示し方で終着点を示されても、観光客であるわれわれはまず終着点ではなく、途中のどこかに行くので、方向を間違えないか迷うのである。幸い、階段に書いてある簡単な表記にもヘレンハウゼンに行くことは付記されていた。
 5、6駅で着くので、ものの15分ほどの乗車である。まずは、3つの庭園全部に行ける券を購入する。そして、見られる時間が最も少ない王宮の博物館を先に見る。
 次のグローサー庭園である。ここにはまず、手前に古代の神々の像がある幾何庭園がある。シチリアのカターニャでも見た、ペルセポネーとハデスの像もある。棍棒を持ったヘラクレスもいた。
 さらに生け垣の中がそれぞれ様式の違う小庭園になっている区画が続く。さらに先まで木々や花がいろいろ植えられているのだが、奥の方にはとても高く水が飛ぶ噴水もあった。その近くの各区画は入口からは中の様子が分かりにくい細道になっていたが、いい加減つかれてきたので、その後ろには行かなかった。
 ベルク公園は立派な植物園ないしは植物公園という感じであった。花々もきれいだったが、途中に多種のラヴェンダーのような花が飾られているところがあり、紫の濃淡できれいであった。
 結局、ここに4時間近く滞在し、目いっぱい充電してきたはずのデジカメの電源が切れた。携帯カメラに引き継ぎながら、ようやく見物を終えた。
 夕飯は、泊まっているホテルのレストランがやっていない風だったので、グレードは落ちるが、もっと庶民的なホテルの1階がカフェ・レストランとなっていたので、ハノーファーのカレーヴルストなる大きなソーセージと野菜サラダをビールとともに食べた。

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ドイツ北西部の旅(6) ブレーメン

 来た道をハノーファーに戻るのもつまらないと思って、北に進路をとり、ブレーメンに向かった。ミュンスターから特急列車のICで1時間18分くらい。大きい街らしいことは、駅の売店に寿司バーまであることからも分かる。
 旧市街の入口にある豚飼いの像から観光が始まった。市庁舎前に行き、まずはお決まりのローラント像の前で写真をとる。ちょうどお昼になったので、市庁舎地下のラーツケラーというワインが売りのレストランに入った。
 ベットヒャー通りは、貿易商人が私財で20世紀前半に作った中世風の街並みだ。狭い路地に面白い店舗や美術館などが並んでいる。パウラ・モーダーゾーン=ベッカーという画家の小さな美術館があり、同じ建物と続きの棟には複数の小さなギャラリーが集まっている。モーダーゾーン=ベッカーという地元で活躍した画家は今回初めて知ったが、普通切手「ドイツの女性」シリーズ(白バラのショル妹も入っていた)にも入っていた人だ。この通りのはずれから地下道を対岸に渡ると、川で、昔のハンザ船ぽい観光船が泊まっていた。
 公演の中にある、クンストハレのコレクションは良かった。クラナッハ、デューラーはもとより、上記のモーダーゾーン=ベッカー、東京で見たヴァロットンもあった。
 ここまで来て、ブレーメンの音楽隊の像を忘れていたことに気がつき、マルクト広場に戻って、幸運を呼ぶというロバの脚に触ってきた。

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ドイツ北西部の旅(5) ミュンスター

 ミュンスターはオスナブリュックからローカル電車で36分。今回の旅で最短の乗車で済む。ところが、ミュンスターの駅が改装工事中で本来の町向きの出口が使えず、普段の裏口が唯一の出口になっていた。着いてすぐは工事であることも気づかず、売店もプレハブで変だなと思ったら、人々が駅の外にあるトンネルをくぐって、反対側に行く。向うに路線バスが通っているのが見えて、ようやく事情を理解した。
 ミュンスターの観光の中心は駅から歩いていける距離にある。まずは、ウェストファリア条約のうち、ミュンスター条約の批准の舞台である市庁舎の「平和の間」に。市庁舎は目抜き通りのど真ん中にあり、騒がしく落ち着かず、ありがたみがない。この地域は戦災がひどかったので、当然再建である。市庁舎の地階の奥の部屋がそうだった。
 次に目に入ったランベルティ教会に行った。尖がった塔がすっくと上に伸びる立派なお堂だが、これは街の大聖堂ではない。この教会の外に「ヒロシマ十字」なるものが作られていた。ヒロシマ、ナガサキ、フクシマ、チェルノブイリで犠牲になったり、被災した人たちへの思いが込められていた。
 驚いたのは、州立美術館で、ケルンのシュニットゲンとヴァルラーフを足したようなコレクションの厚みだった。ヨーロッパ最古の一つであるステンドグラスというステンドグラスを初めとして、11世紀や12世紀といった中世盛期のものが多数あるのだ。さすがカトリックの牙城となっただけのことはあると思った。
 宗教改革期も面白く、この街は再洗礼派によって市議会が牛耳られたあと、カトリックの司教側が街を包囲し、屈服させたのだが、それに関する絵などがある。どうもカトリック側の勝利に貢献したのはイエズス会のようだが、その結果、この街はドイツ北部における数少ないカトリックの拠点となり、ウェストファリア条約の交渉地になるのである。
 三十年戦争の時期もこの美術館でよく勉強できる。ここには、本物やコピーが他の町でも見られるとはいえ、世界史の教科書に出てくるプラハ城からの投げ出しの絵や、戦争の悲惨を描いたカロの絵、テル・ボルフの「ミュンスター条約の批准」の他の画家による白黒の模写などもあるので、全体的な背景も分かる。もちろん、ウェストファリア条約の交渉担当者であったスウェーデンのオクセンティルナや教皇庁のキージ(現在、イタリアの首相官邸になっているキージ宮殿は、この一族のもの)の肖像や、ウェストファリア条約の和平の寓意画も当時の解釈を知るのに欠かせない。2枚あるうち、片方は女神が2人抱き合っているし、もう片方はキリストと聖パウロだという2人の赤ん坊が抱き合っている。
 ここまでの中近世が見ごたえがあって相当疲れたので、正直なところ、バロック以降はもういいやとかなりおざなりに見たが、この地方は、昨年見たケルンあたりもそうだったが、芸術においても発信地というより、他国の影響を多く受けた受信地だったようで、絵画にも近世にはオランダ、近代にはイタリアやフランスの影響が見られる。現在の「ドイツ」という大国がまだなかった時代なので、むしろ文化的には後進地として見ないといけないだろう。
 パブロ・ピカソ美術館には全然期待していなかった。ガイドブックにはエッチングだけだと書いてあったからだ。実際、小さな美術館で、裏口はショッピング・モールに連結している。しかし一応、旅の思い出に行っておこうと入ったら、意外によかった。こういう芸術家同士の親交をテーマにするとは面白い。しかも、ジャン・コクトーは私のフランス好きと切手収集という趣味に適った人である。フランスで一時期使われた普通の郵便切手に「ジャン・コクトーのマリアンヌ」というのがあるが、その原画もあったのだ。
 ピカソのお気に入りの詩人は一時期エリュアールに変わったらしいが、戦後またコクトーとの親交を取り戻したらしく、一緒にいろいろ楽しんでいる写真があるし、シェークスピアとバルザックの肖像を競作している絵もあった。コクトーの絵は本の表紙にも使えそうな絵だが、さすがにピカソのは独特で、画家としてのすごさはやはりピカソが上だ。本当に親しかったのだなと思ったのは、例えば一部屋をそのテーマに充てていたエロティックな絵でも交流が感じられたためだ。この日は別の小企画でフェルナン・レジェの絵も見られた。企画展のカタログは欲しかったが、ぶ厚いのしかなかったので、とても担ぐ勇気がなく、買わなかった。
 この日は土曜日だったので、夕方になると昼間は混雑していた目抜き通りも店じまい、閑散としていて、食事をとる場所を探すにも苦労した。ドイツは労働時間に厳格なのでこうなるのか、25年前にニュルンベルクでも同じ経験をした。ホテルの食堂は朝食のような作り置きのビュッフェ、公園近くのピザ・レストランもいっぱいで待ちだったので、やめて、駅前のアジア・インビスという、中華系かタイ系か分からない店に入る。空いたテーブルでこの家の子どもが本を読んでいる。肉野菜炒め飯みたいなものを食べた。作って出しで、火が取っているので、私には十分おいしく、普段の食事のように寛いで食べられた。

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ドイツ北西部の旅(4) オスナブリュック

 今回の旅の着想に、ウェストファリア条約があった。この条約は近代的な国際関係の基礎となる主権国家システムを基礎づけた条約であるとするのが定説(この評価については近年の研究が批判しているにせよ)なので、私は毎年、授業で言及するのである。そもそも、ウェストファリア条約は単一の条約ではなく、ミュンスターとオスナブリュックで複数の条約が結ばれ、ウェストファリアは地方名でしかないことの不思議さが気になっていた。
 この回の旅でも、ちょっとは知識をつけたいので持ってきた、Derek Croxton の Westphalia: The Last Christian Peace によれば、この二つの都市は当時、家畜(特に豚)がたくさん飼われ、特産品はハムという、ド田舎だったが、オランダが近くのここ以外では来そうになかったこと、また列強(フランス、スペイン、神聖ローマ、スウェーデンなど)のいずれからも等しく遠いということがよかったらしい。天気が悪くなりやすく、道も悪くて泥はねしまくりだったらしい。ただし、二つの町の間では、北ドイツでは限られたカトリックの拠点であるミュンスターのほうがメジャーで多くの外交団が陣取ったが、オスナブリュックに拠点をおいたのは、ルター派のスウェーデンだけだったらしい。交渉に入っても命を狙うような刃傷沙汰もあった緊張感のなかで、どうしても二つの町が必要だったようだ。
 この街は日本語のガイドには出ていない。だから、まずは目玉の市庁舎「平和の間」を目指すことにする。皮肉なことに、有名なテル・ボルフの絵画で有名になったミュンスターの市庁舎の「平和の間」は、調印などの儀式でしか使われたことがなく、まだしもオスナブリュックのほうが交渉に使われたらしいのだが、それ以上に交渉は2国間だったので、各国の拠点などのほうが多く実際の交渉で使われたらしい。どちらの町も、決して豊かとはいえず、当時の外交交渉では開催地は儲かるどころか持ち出しになり、財政も苦労したらしい。
「平和の間」は、どんな部屋かといえば、シャンデリアはあるが、地味な部屋だ。交渉に関わった多数の外交使節(当時は外務省などはまだ各国にないので「外交官」とは呼びにくい)の肖像が40枚以上飾られている。この部屋の反対側には、この街の歴史に関わる歴史文書(レプリカ?)と街の大きなジオラマが飾られている。
 小展示のある階上に行く階段の途中に、この街が授与しているレマルク平和賞の受賞者の写真が掲げられている。『西部戦線異状なし』の著者レマルクがこの街の出身だからだが、ノーベル平和賞とは違い、受賞者に作家系の人が多く、日本でも知られた人では、時事に関して知的なエッセーを書く作家ハンス=マグヌス・エンツェンスベルガーや、ユニークなヨーロッパ史を書いた歴史家のトニー・ジャットが受賞している。イタリア好きにはマフィアと戦った(今も戦っている)パレルモ市長のレオルーカ・オルランドが目を引く。
 この街のもう一つの目玉、米国の建築家ダニエル・リベスキントが設計したフェーリクス・ヌスバウム・ハウス(美術館)は、通りの反対から見ると、木に隠れているようで、これがそうなのという感じだったが、実にユニークな建物で、鉄やコンクリの素材を不規則に組み合わせてあり、なんとも説明しがたい。足元の矢印表記を見なければ最初どちらに行けばわからなかったくらいで、壁のような重い鋼鉄の扉が自動で開いたかと思えば、その先に暗めの長い廊下があり、普通の部屋のようにドア・ノブを廻して入らないといけない部屋などがあるかと思えば、部屋の形も真四角ではなく、普通の美術館と違う。
 ヌスバウムの絵にはゴッホとアンリ・ルソーの影響があると書いてあったが、私には色合いとモチーフはシャガール、構図はキリコのような感じに思えた。実際、ローマに行ったことがあるらしい。
 ところで、この日は第一次大戦の記憶という感じの小企画もあって、日本がドイツと戦ったチンタオやドイツ領だった南洋諸島に関するものが展示してあった。

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ドイツ北西部の旅(3) ブラウンシュヴァイク

 ブラウンシュヴァイクという長い名前の町は、なぜか中世史に関する文献でよく目について気になっていた。今回の旅の前にプラーニッツの論文の邦訳(私の学生時代には、こういう中世史の研究文献が多く訳されていたのである)で30年ぶりくらいに復習したら、ドイツの都市の起源に二つあり、一つがburg(城砦)であり、もう一つがwik(商人居住地)であると書いてあった。このwikがブラウンシュヴァイクの「ヴァイク」と同じなのである。
 現在ではニーダーザクセン州第2の都市ということで、街は近代的だ。ただ、この街について、日本語情報は少なく、『地球の歩き方』でも1ページのみ、地図もない。とりわけ、フェルメールを持っている美術館が有名らしく、まずはここから攻めようと思った。といっても地図もないので、携帯のグーグル・マップで見たら、どうも「シュロス」(城館)と呼ばれるところが町の中心らしいので、そこに行ったら、道草の種ができた。
 この「シュロス」、地元のブラウンシュヴァイク公爵の宮殿だったらしいのだが、えらく大きく立派で、左側の翼に博物館があったので、思わず入ってしまった。企画展が公爵夫人(もちろん昔の話である)のマリーという美女で、そのポスターにも釣られた。あまり来る人もいないようで、日本人の私が入ったら、「どうして?」という目だった。
 この宮殿の歴史を短くまとめた映画を見ると、この立派な建物は実は21世紀に入って完成した最近の再建で、しかもそれまで2回にわたって戦争で破壊されているという。写真を見ると文字通り壊滅状態、瓦礫の山であった。
 この宮殿の近くにある、日本で人気のフェルメールの絵が1枚あるアントン公美術館は工事中で、長期休館中だった。
 意外に面白かったのは、州立博物館でやっていた、地元のブラウンシュヴァイク公爵でナポレオンのフランス軍と闘った人の企画展で、よく考えるとワーテルローの戦いやウィーン会議の200周年なのである。この公爵が戦死したのが、カトル=ブラというところで、その戦士のシーンと、ワーテルローの戦いのシーンの二つがミニチュアでジオラマになっていた。地元の人は前者に思い入れがあるのだろうけど、各国のたくさんの兵が軍団ごとにつくられたワーテルローのほうが外国人には面白い。
 この博物館には、地元の歴史の常設展があって、これがドイツ史のよい復習になった。

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ドイツ北西部の旅(2) ゴスラー2日目

 ゴスラー滞在の二日目。ほとんどの観光スポットが10時以降の始まりなので、ゆっくり動き始める。シルダー通りやヤコービ通りの古い家並みを見たあと、メンヒェハウスに入る。これも近代美術館と名乗っているけれど、古い家屋を改装したもので、階上で木造の床を歩くと軋む。私の知らない現代画家の企画展が主だったけれど、ヴァザルリーが1枚あった。
 次にジーメンスの先祖の家だというジーメンスハウスを探した。シュライヴァー通りとベルク通りの交差するところにあり、なるほど大きくて立派な建物だったが、改装工事中で中に入れないし、外装も観光写真と違う気がして、どうも正しい場所に行ったかどうか自信が持てなかった。
 ここから昨日行った皇帝居城の前を大回りして、昔の城門の見張り台であるツヴィンガー博物館に向かう。ここまで1時間くらいかかるつもりが早々と来てしまって、11時の開館まで手前の池の前のベンチで待った。池の周りをジョギングしている人をたくさん見かけた。11時になったので中に入るが、入り口には誰もいなくて、階段を少し登って出た1フロアが博物館。といっても色々な時代、地域の武器や拷問器具が少々あるだけで、ナポレオン時代の武器とか、なぜか日本の陣笠や武具があった。初老のおばさんが対応係で、ややしんどそうに屋上への出口を開けに行った。屋上からの展望はよく、街も反対側の山地も見渡せるが、残念なことに皇帝居城の方向だけは林があって、少ししか見えない。
 次にゴーゼ川の近くのギャラリーでヘイケ・アドナーという彫刻家の作品を見せているという観光案内書のポスターに魅かれて見に行ったが、とても小さな画廊で、展示は入口の2間しかなく、数人のご婦人たちに白ワインを振る舞い、たぶん作品販売のプロモーションの途中だった。この人たちの間を縫って一応見せてもらい、作品ではなく、その写真集(彫刻家の彫刻と詩を掲載)を購って出る。
 ここまで来ると、広場が近いので、森貴史・藤代幸一『ビールを<読む> ドイツの文化史と都市史のはざまで』(法政大学出版局)で紹介されていた、ブラウハウス・ゴスラーで地元のビール「ゴーゼ」を小さめのグラスで飲んだ。口当たりはさっぱりしていて何杯でも飲めそうだが、例えが下手かもしれないが、醤油のようなコクがある。12時まであと少しで、よくゴスラーの観光写真になっているシューホーフという広場に行くが、それほど感心しなかった。アイスクリームを頼んだら、店員は中国人だった。
 正午前にマルクト広場に行き、広場に面した今はレストランになっている旧市倉庫の上にあるからくり時計を眺める。アナログ的で、そもそも時計自体が2、3分遅れているが、教会の鐘が時間通りになってしばらくしてから鐘の音楽が鳴って、まず真ん中のドアから白馬を挟んで皇帝と騎士が現れた。次に、右のドアから出てきた、いずれも複数からなる3組の坑夫の人形が左のドアに回っていった。
 昼食を取る前に駅前からランデスベルク鉱山博物館行きのバスに乗る。ゴスラーの町とセットで世界遺産に指定されている当地の観光の目玉で欠かせないが、大きな施設なので半日は要ると見たが、実際そうで、中のツアーに3種とも参加すれば1日かかっただろう。ここで3時開始の「レーダー坑道ツアー」込みの入場券を買い、カフェテリアで昼食。グラーシュとかあったが、普通にボローニャ風スパゲッティを食べる。
 ツアーまでの間、展示館を見る。一つは鉱山の巨大な機械がたくさん入った建物で、いろいろな種類の鉱石の常設展と鉱山に関するいろいろな写真の企画展を見た。別の鉱山の歴史と文化を展示する館は非常に面白く、古代以来の採掘の歴史だけでなく、政治・経済・社会の動きとも絡めてあり、商売上も勉強になった。まず、ゴスラーに皇帝がいた11世紀前後の皇帝の居場所を地図上にプロットしたパネルは、その時期の帝国には常設の首都という概念がなく、皇帝はしょちゅう居場所を変えていたが、ゴスラーには非常に長くいたことが表されていた。
 また、ヒトラーがゴスラーを訪問し鉱夫たちから鉱山ランプを受け取っている写真や、ナチスが占領したウクライナなどから強制的に労働者を連れてきた歴史なども回想されてきた。今、ウクライナは分裂しているが、そのどちらからも連れられてきている。ルガンスクの人もいた。それだけでなく、ムッソリーニを首にしたイタリアが対独宣戦布告すると、イタリア人も連れてきている。
 ヘルメットを着けて3時からの坑道ツアーに参加する。案内役のシャキッとしたおじいさんは、どうも若いころここで働いていたらしい。らしいというのは、ドイツ語のツアーなためで、この後はたぶんに僕の印象である。いきなり坑道に入らず、まず地下に何層にも分かれ、網の目のように広げられた坑道と水路の模型を使って説明する。やはり地下の採掘で最大の問題は水の処理らしく、多数の水車やポンプ、水路で水を逃がしながら採掘したようだ。次に山道を少し登り、湖の前に来たが、そこでは水着の人々が泳いだり日光浴をしている。どうもこの湖が鉱山の水量調整に関係していたらしい。この反対側の山側に坑道への入口があり、いよいよツアーである。
 この古い坑道はきれいなトンネルにはなっておらず、ゴツゴツした手掘りの感じがありありで、ところどころ傾いたり、低くなったりで168センチの私でも何回も体を曲げながらそれでも3回ほどしたたか頭を打った。ヘルメットは必需品だった。何基も大きな水車を見る。坑道には横に水路の走っているのもあり、多くは壁の岩も床の泥も濡れていて、水滴が落ちてきたり、雨の日のような水たまりが沢山あり、あとでホテルに帰って靴とズボンを脱いだら、あちこち泥はねの跡がついていた。おじさんが電気を付けると何キロも続く坑道が見えたりする。終わり近くの場所で、電気を消してどのくらいの明るさになるか、鉱山ランプのみの明かりを見せてくれた。ほとんど何も見えない。
 ツアーには他にもトロッコに乗って、近代的な採掘の様子を見るツアーもある。なにしろ、中世から20世紀後半まで1千年も堀ってきた鉱山なので、歴史の厚みが違う。

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ドイツ北西部の旅(1) ゴスラー

 ゴスラーに着いた。前に書いたように、この街に来ようと思ったのは、まったくの偶然による。国際関係論で扱う主権国家体制がヨーロッパで成立したのは、何といっても宗教改革を抜きに語れない。そこで宗教改革の本質を表す絵がほしいわけだが、それぞれの領邦での君主の信仰の自由がバラバラの沢山の国が並び立つ体制を作ったわけで、それを表すのは同じルターでも、ヴィッテンベルクで掲げた95か条の論題よりも、ウォルムスの帝国議会で皇帝カール5世の前で自説撤回を拒否した瞬間である。カトリックの世界観が崩れたのだから。
 この絵を掲げている皇帝居城というところに行きたかった。しかし、この皇帝居城、実は中世のそのままでなく、ドイツ統一後に昔の皇帝居城を模して作った「理想型」のようなもの。行って見て分かったが、中世以来のドイツの歴史観に基づいた皇帝たちの歴史絵画の連作で、中央にはウィルヘルム1世が理想視された絵で描かれている。宗教改革の絵もたぶんにドイツ・ナショナリズムの中で描かれたもので、今後教材として使い続けていいか再考が必要だ。
 しかし、たまたまでも、この世界遺産の割には日本であまり知られていない街を見つけたのはラッキーだった。西洋史を専攻していたときの文献を繰ると、ゴスラーが当時は重要な都市だったことが分かる。
 意外に面白かったのは、鉱山の町らしく、スズで作ったミニチュア人形の博物館である。人形といっても平べったい板を切り抜いて作り、堀って線を入れた後、着色するのである。歴代皇帝のミニチュア人形もよいが、三十年戦争の戦闘シーンをたくさんの人形でパノラマで作ってあるのは圧巻。ほかに、技術の現代的利用で、日本のアニメキャラや、スターウォーズ、パイレイツ・オブ・カリビアンのキャラ人形が作ってあるのも面白かった。

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