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ドイツ北西部の旅(4) オスナブリュック

 今回の旅の着想に、ウェストファリア条約があった。この条約は近代的な国際関係の基礎となる主権国家システムを基礎づけた条約であるとするのが定説(この評価については近年の研究が批判しているにせよ)なので、私は毎年、授業で言及するのである。そもそも、ウェストファリア条約は単一の条約ではなく、ミュンスターとオスナブリュックで複数の条約が結ばれ、ウェストファリアは地方名でしかないことの不思議さが気になっていた。
 この回の旅でも、ちょっとは知識をつけたいので持ってきた、Derek Croxton の Westphalia: The Last Christian Peace によれば、この二つの都市は当時、家畜(特に豚)がたくさん飼われ、特産品はハムという、ド田舎だったが、オランダが近くのここ以外では来そうになかったこと、また列強(フランス、スペイン、神聖ローマ、スウェーデンなど)のいずれからも等しく遠いということがよかったらしい。天気が悪くなりやすく、道も悪くて泥はねしまくりだったらしい。ただし、二つの町の間では、北ドイツでは限られたカトリックの拠点であるミュンスターのほうがメジャーで多くの外交団が陣取ったが、オスナブリュックに拠点をおいたのは、ルター派のスウェーデンだけだったらしい。交渉に入っても命を狙うような刃傷沙汰もあった緊張感のなかで、どうしても二つの町が必要だったようだ。
 この街は日本語のガイドには出ていない。だから、まずは目玉の市庁舎「平和の間」を目指すことにする。皮肉なことに、有名なテル・ボルフの絵画で有名になったミュンスターの市庁舎の「平和の間」は、調印などの儀式でしか使われたことがなく、まだしもオスナブリュックのほうが交渉に使われたらしいのだが、それ以上に交渉は2国間だったので、各国の拠点などのほうが多く実際の交渉で使われたらしい。どちらの町も、決して豊かとはいえず、当時の外交交渉では開催地は儲かるどころか持ち出しになり、財政も苦労したらしい。
「平和の間」は、どんな部屋かといえば、シャンデリアはあるが、地味な部屋だ。交渉に関わった多数の外交使節(当時は外務省などはまだ各国にないので「外交官」とは呼びにくい)の肖像が40枚以上飾られている。この部屋の反対側には、この街の歴史に関わる歴史文書(レプリカ?)と街の大きなジオラマが飾られている。
 小展示のある階上に行く階段の途中に、この街が授与しているレマルク平和賞の受賞者の写真が掲げられている。『西部戦線異状なし』の著者レマルクがこの街の出身だからだが、ノーベル平和賞とは違い、受賞者に作家系の人が多く、日本でも知られた人では、時事に関して知的なエッセーを書く作家ハンス=マグヌス・エンツェンスベルガーや、ユニークなヨーロッパ史を書いた歴史家のトニー・ジャットが受賞している。イタリア好きにはマフィアと戦った(今も戦っている)パレルモ市長のレオルーカ・オルランドが目を引く。
 この街のもう一つの目玉、米国の建築家ダニエル・リベスキントが設計したフェーリクス・ヌスバウム・ハウス(美術館)は、通りの反対から見ると、木に隠れているようで、これがそうなのという感じだったが、実にユニークな建物で、鉄やコンクリの素材を不規則に組み合わせてあり、なんとも説明しがたい。足元の矢印表記を見なければ最初どちらに行けばわからなかったくらいで、壁のような重い鋼鉄の扉が自動で開いたかと思えば、その先に暗めの長い廊下があり、普通の部屋のようにドア・ノブを廻して入らないといけない部屋などがあるかと思えば、部屋の形も真四角ではなく、普通の美術館と違う。
 ヌスバウムの絵にはゴッホとアンリ・ルソーの影響があると書いてあったが、私には色合いとモチーフはシャガール、構図はキリコのような感じに思えた。実際、ローマに行ったことがあるらしい。
 ところで、この日は第一次大戦の記憶という感じの小企画もあって、日本がドイツと戦ったチンタオやドイツ領だった南洋諸島に関するものが展示してあった。

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