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沖縄の旅(1)

 沖縄に来た。那覇は意外に大きな街で、市域にいる間はずっと建物しか見えない。糸満行のバスに乗ったが、隣の豊見城に出るまで、畑も農園も見えなかった。おそらくは20個以上のバス停を経て、糸満バスターミナルに着いたのは小一時間後だった。このバスターミナル、実際は都内でいう「車庫」に近い。決してつくばセンターのようなターミナルではない。タクシー乗り場もない。まぎらわしいことに目の前が自動車学校で、練習用の車はたくさん走っている。ここから平和祈念堂行のバスに乗り換えるつもりであったが、次のバスは1時間半後。電話ボックスに入り地元のタクシーを呼んだ。
 平和祈念公園はなかなか大きな場所で、どこから見ればいいか分からなかったので、まずは資料館に入った。琉球処分から始まって、沖縄の苦難の歴史がたどれる。特に心が痛んだのは国が沖縄方言を禁止しようとしたことで、生徒が学校で方言を使うと罰に「方言札」というのを下げさせられた、その札が展示されている。改姓改名運動もあり、当時の新聞を見ると、国側は沖縄の姓を珍奇なものとバカにしている。特高はユタも捜査対象にしたらしい。ただ、柳宗悦という人はえらい人で、そういう時代に沖縄に来て、人々に沖縄独特の文化を守るよう説いて回ったらしい。それを国側の警察長官が批判している。
 特別展示で沖縄と日本が委任統治していた南洋諸島との関係を取り上げていたのは勉強になった。結局、あの辺の島でグアムだけがフィリピンの延長のようにアメリカ領で南洋諸島に食い込む感じで位置し、第二次世界大戦で激戦地になるサイパンやトラック諸島などのミクロネシア、後でアメリカの信託統治領となって独立する島々に、沖縄からたくさんの人が行き、また戦争で犠牲になっていることも分かった。
 戦争中の話は痛ましいこと限りないが、沖縄独特のあの建物のような墓が、沖縄の人の隠れ家や米軍の陣地にもされたことが分かった。当然、両軍の攻撃で破壊されたわけである。戦後のアメリカの統治下もいろいろな事件があるが、B52が落ちたり、サリンを含む毒ガスが貯蔵されていて、事故もあったようで、本当に痛ましい。
 資料館から出発したのは間違いでなく、すぐちょうど奥が平和の礎になっており、そこから丘を登ると、各都道府県の慰霊塔がある。もちろん親戚などの犠牲者はいないが、やはりこの地の果てまでやってきて亡くなった同郷人がかわいそうで、お祈りした。
 4時前に見学を終え、バスでひめゆりの塔へ。前から「ひめゆり」って花はないよなと思っていたが、展示を見て並び立っていた二つの女子学校の校誌のタイトルがそれぞれ『乙姫』『白百合』だったらしく、校誌の統合でそういう名前ができたらしい。塔は小さなもので、その背後にゴツゴツの岩肌が出たガマ(洞窟)がある。この地は南に敗走する日本軍の野戦病院の「第三外科」があったらしい。資料館の展示を見ると、この地に多いガマに作られた野戦病院も、戦争の展開や死傷者の増加で次々と分室を作っている。動けない重病者を置いていかざると得なかったり、助かる見込みのない傷病者に青酸カリ入りの牛乳を飲ませたりしたらしい。医療が整わないので、手足の切断はよくあり、そういう過酷な場で看護を女子学生がしていたわけである。途中で降伏すればいいものを、最後の最後になって、戦場のど真ん中で解散となる、本当にひどい話だ。

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