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沖縄の旅 (2)

 今回の最大の目的だった基地観光をした。もちろん、米軍が見張っているようなところで見るわけではなくて、基地外の誰がいてもよいところで、遠巻きでも「見える」場所から見るのである。ただ、自然に「見える」わけでもなくて、後で述べるが、おそらくは日本側の意地もあって、基地が見える場所に見えるようなものが作ってあるのである。
 9時前に約束したハイヤーの運転手が迎えに来た。朴訥な人だが、各地で降りて簡単に案内をしたり、現地の情報を教えてくれる。最初に北上し、嘉数高台公園に向かったが、その途中で那覇の「新都心」と呼ばれるところを通った。これは米軍から返還された土地で、もともといい場所を米軍がおさえていたので、すぐ高級マンションなどが立ったという。付近一帯のかなり大きな土地だったらしく、ショッピングモールや県の博物館・美術館も他県でもあまり見ないほど大きなものが立ってくる。この辺の町名「おもろ町」は琉球歌謡の古典『おもろさうし』から採られたという。
 嘉数高台公園はもともと太平洋戦争で激戦地だったところで、今は米軍の普天間基地の滑走路の延長線上にある。ただ、すぐ近くにあるわけではなくて、公園との間に住宅、企業、学校などがたくさんあり、これが沖縄国際大学へのヘリ墜落でも明らかになった、街中の危険な基地という特徴である。公園は高台にあるので、遠くまで見え、住宅などの向うに基地も視界に入るのだ。逆に言えば、遠くにあっても、十分見える大きさがあるくらい、基地はそこそこデカいということでもある。
 この公園は基本的には激戦の慰霊地的な存在で、100段ほどの石段を上ると、展望台のほかに幾つか慰霊塔もある。特に「京都の慰霊塔」というのが立派である。なお、石段の途中には左に入っていける道があって、この奥には日本軍の陣地壕だったという洞窟が見られる。3階建ての展望台の2階にはラジオと双眼鏡持参のおじさんが二人いたので監視活動かと思ったが、運転手がそうかと尋ねても「そうでもない」という。ヒマつぶしなのか、真剣な監視なのか、今一つ分からなかった。
 展望台から見ると遠くに普天間基地の滑走路が見え、またオスプレイがたくさん停まっていることは肉眼でもかなり分かる。ただ、カメラを構えても小さく見えるだけ、かなりズームアップしないと、それと分かる写真は撮れない。
 この展望台は各階が円形で周囲を360度見えるようになっている。基地と違う方向には海が大きく開けて見え、港があり、昔この辺が琉球の物流の中心であったことが分かる。また、米軍が北谷あたりから上陸してくるのがここからはよく見えただろうと思われる。
 この展望台の近くには旧日本軍の使ったトーチカ跡があって、かなり傷んでいるが、銃座の位置などは十分に分かるし、鉄筋の一部が欠けたコンクリートから浮き出てしまっているのも見える。石段を降りたところには、弾痕が残る塀がある。もともと一つの建物の塀だったのだが、残った部分が自立できないのか、周りを固めて固定している。
 再び国道58号線を北上するが、特に右側に米軍基地のフェンスが多く、嘉手納基地周辺に入ると、これがずっと続く。また途中からは、道の左側、つまり海側にも燃料タンクなどがあり、道路が両側を基地で挟まれるようになる。嘉手納基地が広大なのは、この縦方向の長さでも分かるが、後で横方向も長いことが分かる。
 嘉手納の弾薬庫と基地は瓢箪型につながっていて、真ん中部分のくびれのようなところの基地外の土地に作られたのが「道の駅かでな」だ。4階建ての建物の4階に展望台があり、ミリタニーマニアが写真を撮りに来ている。これができる前は「安保が見える丘」というところから沖縄の人たちが監視していた。日本側の意地のような感じで建てられた気がするし、よく米軍がこれを認めたなと思う。「道の駅」なので、1階で土産物を売っているが、戦闘機の写真や米軍のマークが入ったTシャツも売っているので、まじめなような、お気楽なような、不思議な感じである。
 展望台に立つと視界いっぱいが基地だ。長い滑走路が横に走っている。遠くには大きな格納庫がたくさん。修理に使うのか、とりわけ大きな格納庫も見える。ただ、私が着いたのは9時台で、飛行機は輸送機らしいものが2機あまり見えるが、戦闘機などは見えない。どうも10時過ぎから米軍の演習などが始まるらしく、ミリタリーマニアたちは椅子に腰かけて、まだ自分たちの仕事の時間ではないとでもいうかのように、寛いでいた。道の駅の前には騒音計があるが、基地を囲む木々も基地を隠すというより、騒音軽減の目的だという。
 道の駅の3階には学習展示室があり、基地ができる前の嘉手納のジオラマや、過去に飛来した、あるいは今飛来する軍用機の種類など、いろいろなパネル表示があった。とりわけ、嘉手納町の領域の83%ものが基地で、北部の弾薬庫と南部の基地に挟まれた残りの細長く狭い土地に住民が押し込まれている現状が写真地図のパネルで見やすく表示されていて、沖縄でも他に例をみないような、ひどい状態である。しかも、基地は嘉手納町だけでなく、北谷町や沖縄市(旧コザ)の一部にも及んでいるのだ。
 焦点の基地を二つ見たあとは、やはり辺野古を見たくなる。ただ、辺野古はここから数十キロ先とやや遠いので、契約した5時間の中で帰ってこれるか分からなかったが、ここまで来て見ない手はないと、高速料金をこちらが支払うことで行くことにした。この「道の駅」を出てからも、嘉手納基地の間の道をいろいろなものを見ながら、ようやく基地の外に出るのだが、建物には当然、英語でFire Stationなどと書いてあるのである。途中、Stray Animalsという字も見たが、基地内の野犬等の処理だろうか。
 小一時間、自動車道を走った後、辺野古崎はどこから見るのだろうと思ったら、キャンプ・シュワブのフェンスから少し砂浜を挟んだところに小さな漁港の堤があり、これが海に向かってまっすぐ伸びているので、その先ならフェンスを視界から外して辺野古崎がよく見えることが分かった。この堤に立つと辺野古崎は十分に見えるし、その近くにある二つの小島も確認できた。印象的だったのは海の色で、エメラルドグリーンなのだ。ジュゴンも来ると言われたのも分かる。
 雨で濡れた砂でハイヤーを汚したくなかったので、私は堤は越えなかったが、若い人たちはフェンスまで砂浜を歩いて行っている。フェンスには抗議の横断幕が付けられているが、メッセージはこちら向きに書かれている。米軍に見える裏にもメッセージが書いてあるかどうかは分からないが、何か変な気がした。ただ、よく考えると、辺野古移転は日米両政府の合意だから、日本政府に向かっても抗議して当然なのである。
 この小さな漁港には監視のための基地として「テント村」があり、この日も何人かいた。ここは、抗議の場所でなく、ベース・キャンプというか、休憩ポイントという感じだ。車に乗り、陸側に入り、左右両側に基地がある道路を車で通ると、基地のゲート前の向かい側の道に抗議のためのテントが張られていた、「テント禁止」の看板にもかかわらずテントが幾つか張られていたが、この日は沖縄の人たちが大事にしている、祖先を送り出す旧盆の最終日なので、誰もいなかった。幟の中に「沖退教」という文字もあったが、これは退職教員の組合だろう。
 辺野古までの行程はスムーズで、正午過ぎには見たいものは見た感じになった。契約は5時間なので、運転手の提案で海岸の名所があるというので任せることにする。上述したように、この日は旧盆の最終日で、途中でエイサーを踊る人たちを見た。運転手は普通、夜に踊るもので、昼は珍しいと言っていた(これについては後で違う説を聞くことになる)が、もともと旧盆最終日に踊るものだったが、何日も踊るようになったという。中に面白いメイクをしている人がいたが、これは西洋でいえばピエロのような道化役らしい。とても良いことに、若い人が踊るのが盛んらしく、もっともあの踊りは若くないと踊れませんけどね、という話だった。
 名護市から北部の海岸をぐるぐる行った先の恩納(おんな)というところにあるのが「万座毛」という石灰岩の断崖絶壁である。後で調べると沖縄本島有数の景勝地らしく、中国、韓国の観光客が多かった。天皇・皇后両陛下も来られたらしく、歌碑がある。ところが、駐車場の両脇のお土産屋さんは全部、旧盆の最終日ということで休みである。
 断崖の上に曲がりくねった遊歩道があるが、特に写真ポイントになっているのが、ゾウの鼻のような形の岩が見える場所である。また、ビーチに面した方を見ると、全日空の大きなリゾートホテルが立っていた。プライベートビーチと付近にこの景勝地、よくできたホテルである。ご丁寧にというか、ビーチの前の海中にはどこぞの夫婦岩のような対の岩まであって、しめ縄が張ってある。
 「万座毛」の「毛」とは草原という意味らしく、ここにはアダン、ソテツなど南国の野趣あふれる植物も生えていて、昨日、平和祈念公園の資料館で知った、沖縄の人が飢餓の際にソテツまで口にしたという話をすると、運転手がソテツには毒があり、食べるにも水にさらして少し寝かさないといけない、それも待てずに口にした人が多く死んだと教えてくれた。
 また、「琉歌の里」という看板が気になり、聞くと、短歌でもないが、独特の節回しで歌うものだという。三線も使うらしい。私が都都逸のようなものか、と聞くと、その例えがあっているかどうか分からないと答えた。有名な女流歌人がこの辺にいたらしく、記念碑がある。ここでいい時間になったので、沖縄自動車道に乗り、終点の那覇まで南下した。
 首里城公園でハイヤーを降り、1時過ぎになっていたので、まず公園入口のレストランでソーキソバを食べた。首里城は外観はなかなか趣があるが、観光客たちが言っていたように、やはり中国に似た感じがする。しかし、内部はあまりにもきれいに観光化されている感じがして、今一つしみじみと歴史を感じることはできなかった。面白かったのは、最後にお土産を買ったら、お釣りに守礼門が描かれている2千円札をもらったことだ。どうも2千円以上のお釣りに一枚入れるように準備してあるようだ。本土ではあまり流通していない2千円札が沖縄ではこういう観光的ニーズなどで結構使われていると聞いた。
 首里にはモノレールの終点があるが、首里城公園からは少し距離がある。運よく、入り口に空車のタクシーがいたので、ひとまずホテルに戻ったが、運転手にエイサーについて、先のハイヤーの運転手から聞かなかったことを聞いた。エイサーが若い人にも盛んなのは、コンクールがあるためで、そこには現代風にアレンジしたものも多いという。どうも、高知のよさこいのような感じで流行っているらしい。先に見た道化役は「京太郎」(ちょんだらー)というらしい。
 この伝統芸能は、本来お坊さんが先導する念仏踊りで、そういう古い形のエイサーも一部の地区に残っているという。後は私の聞き書きなので、正確な内容は文献と対照しないといけないが、どうもエイサー的なものの起源となったお坊さんは京都から来たらしく、もともとは東北出身だったので、福島の「じゃんがら」という念仏踊りに似たところがあるという。また、昼にエイサーを踊るところも結構あると聞いた。

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