「ナチュン」最終回に

 『月刊アフタヌーン』連載の「ナチュン」(最新号が最終回)は、文化人類学者が描いた異色の漫画だが、別の漫画家の「20世紀少年」と同様に、回を追うごとにスケールが大きくなって世界支配まで行ったので、話を広げすぎてどうするのだろうと思ったら、そういう終わり?という幕切れは、やむを得ないか。舞台となった沖縄(出てくる地名は架空のものだが、明らかに沖縄をイメージ)は、怪しげな人間たちが入り乱れる猥雑な環境設定には適していたが、最後の着地点のための保険にもなっていた感は否めない。やはり、世界支配はそこに向かっていくプロセスが面白いのであって、本当に支配したら、つまらないし、壊すしかないものね。
(既出の「スウェーデン製武器」の項から、「ナチュン」に関する記述を分けました。)

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「ヘタリア」を知っていますか?

 若者に阿るつもりはさらさらないが、彼らを知ろうとすることは必要で、そのためか、あるいは単に勝手な関心からか、今流行っているものを教えてもらうことがある。
 着任2年目でようやく、私がイタリア研究者の端くれであることが学生にも浸透してきた。普段教えている、国際関係論やヨーロッパ政治外交史では、特にイタリアに重点を置いて教えていないためであり、それ以外の、ゼミのコンパをカジュアルな店でもイタリアンに絞っていることなどから徐々に伝わってきたようだ。
 その学生の一人が教えてくれたのが、国家を擬人化した漫画「ヘタリア」である。イタリアとドイツなど他国がそれぞれ個人(若者)になって、国際関係を人間関係として、一応、歴史を追う形で面白おかしくふざけながら描いているようだ。
Hetalia

 よく小中学生に、安直に教えるときに使われる「イタリアは(卑怯で)三国同盟から寝返った」などの見方を、さらに進めてイタリア人に対する偏見(アホ、スケベ、軽薄)を歴史に無理矢理投影しているような感じ。
 題名は、「へたれ」(関西では、力がなく情けない人をこう呼ぶ)から来ている。う~ん、これが一般に楽しまれたら、イタリア認識の点では、今出回っている幾つかのお手軽エッセー同様、ちょっとまずいかも。というのは、誰も漫画を真に受けないにしても、これが笑える(私もウェブ掲載分を見て笑ったが)ということであれば、そこに上記のような偏見が当然、前提にあるからである。

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天才バカボンの凄さ

 私も子供の頃は、天才バカボンのファンでした。母方の祖父が町医者で、夏休みなどに泊まりで遊びに行くと、待合室に置いてある漫画雑誌(たくさん見たのに、なぜか、今となっては、ちょっとエッチな「イヤハヤ南友」くらいしか思い出せない)を読んで、そこから子供の小遣いでも買える「ドラえもん」や「天才バカボン」の単行本を買った記憶がある。
「バカボン」はその名に反して、結構、風刺やエスプリの効いた漫画で、小学生にはむしろ大人の世界をのぞき見る観もあった。例えば、今でも思い出せるのだが、作中に登場した、当時人気の「森昌子」の偽者「森日日子」(縦に書くと区別がつかない)を売り込もうとするペテン師など、現実にも似た例があったかもしれない。
 赤塚不二夫氏が果敢にも実存哲学に挑戦したことがあって、その内容が合っているかはともかく、何でも理詰めで哲学的に考え通す早熟の少年が、実はクラスで唯一自分の名前が書けないといって、バカボンたちに平仮名を教わるが、これは「あ」です、と教えると、その「あ」という字は何と読むの、と聞いて、バカボンたちを愕然とさせるという回もあった。文字の「名前」と「音声」は同じであるとは限らない、という懐疑心過剰というか、ほかの漫画ではあり得ない、笑いとともに哲学的なブラックな味があった。
 赤塚不二夫の「作品」、生きている名作の一つであるタモリも最近では「タモリ倶楽部」以外では見られないが、こういうセンスのある人である。紅白歌合戦で冬の背景で黒いマントを着た沢田研二の衣装を「歩く日露戦争」(この表現だったか不確か)と例えたことがあったかと記憶する。要は大人も笑えるということ。それにしても、タモリ氏の弔辞は、透徹した名文だった。弔辞の名文として保存したい。
 朝日の記者の赤塚氏追悼記事もとてもよくて、明日か明後日に帰省の折りには、東京駅で天才バカボンのベスト版を買って乗り込むことになりそうだ。

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