病院と薬局で考えたこと

 4月1日、新学期に備えて、心配なところをチェックしてもらうため、これまで行ったことのない大きな専門病院に行ってきた。その病院は、脳神経外科や循環器外科など診療科を幾つかにしぼった専門病院(病院名は伏す)で、はっきり言って、総合病院にはある小児科と婦人科がないので、中高年中心の病院である。医師もちゃんとした説明をしてくれるし、質問にも的確に答えてくれる、いい病院だった。
 玄関にいきなり、本日より、脳神経外科の医師が一人やめたので、同じ科の縮小・再編を行う、という張り紙があった。カウンタでも馴染みの先生が辞めたことを知ってとまどっている人がいた。ここでも医師不足かと思ったが、大きい病院で、出勤表を見ると、たくさんの医師がいるので、全国的な動きとは区別が必要なようだ。むしろ、この病院は専門分野では設備が充実しているようで、より専門的な医療に特化することが行政からも求められているのだろう、患者の地元にある専門医を紹介すると書いてある。確かに、日本のように、いきなり大病院にも小病院にも、どこに行ってもいいというのは、ちょっと海外でもない、問題のある体制である。イギリスでは、ホーム・ドクターが診て、手に負えないのだけ大病院に委ねるし、ドイツでは、医者が十分なところには開業を制限し、医者不足のところで優先的に認める。
 病院自身が季刊のパンフレットを作っているくらい、よく整っている。そのパンフレットで、大学に大学評価・学位授与機構があるように、病院にも今は日本医療機能評価機構があることに気づく。その基準のヴァージョン○(病院が特定されるので、番号はここでは書かない)指定を受けたとあった。全国にも限られた数しかないようだから、これは誇りなのだろう。詳しく知らないが、ヴァージョンという言葉は、あるいは、「優良」などと書くと、他が「不良」のように見えてしまう(そうすると誰もそこに行かなくなる)ので、到達度のように表しているのではないだろうか。
 報道にあったように、1日から全国で義務づけられる、詳しい明細書が出た。この病院では、すでに昨年からできていたようだ。
 その病院の外には、大きな処方箋薬局が2軒もある。大きい方の薬局は、真ん前にあり、ピンクのブレザーの制服を着た案内係の女性がドアの前に待っていて、こちらは水の流れのように自然に中に案内される。中はカフェかレストランのようにガラス張りで明るく、机と椅子が多数あり、患者というより客は、各テーブルで待っていれば、向こうから薬を持ってきて説明にくる。お茶も出た。薬局で茶が出たのは初めてだ。
 ひょっとして、と思うのは、接客の有名な先生で、「エチカの鏡」にも出た平林都さんという人の影響ではないかと思った。この方は、伝説のマナー教師で、病院もサービス業である以上、待っている人にはお茶の一つも出さないのはおかしいと、指導した病院(私が今回行った病院ではない)でお茶を配っていたのである。
 別にお茶が欲しいわけではない。しかし、診察などを過ぎた後は、ちょっとうれしいかも。でも、日本的な行き届いた配慮に慣れすぎると、ずぼらな(大らかな?)海外に行ったとき、変になる気もする。

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私が好きなスピノザの言葉

「すべて喜びをもたらすものは善である。」フランスかぶれだった最初の大学院修士のときに見つけた、大学でとっていたフランス語の新聞(『フィガロ』だったと思う)の全面広告で引用されていた言葉である。自動車の広告だった。
「喜び」には、フランス語でplaisirが当てられていたから、「快感」「快楽」も含むわけで、20代前半の若者には、こんないい言葉はないな、と思い、コピーして院生室の壁に貼っておいた。だから、「すべて快をもたらすものは、善である」と思っていたわけだ。実際、スピノザも、身体の各器官が持っている本来の機能を存分に活かすことを「喜び」と言っている。
 もちろん、私も必ずしも肉体的な快感のみを目指していたわけではなくて、自分が知りたいと思うことを知ることは快感だから、できれば「研究の意義」なんぞにとらわれず、自分の好きなことがやれればいいと思っていたのである。それ以後、今日に至るまで、良師に恵まれながら、どの人の正統な弟子になることもなく、その恩には報いず、オタク的なテーマだけを追い、学会の片隅に辛うじて生息している。
 しかし、良師の恩は亜流の弟子にも伝わる部分もあって、恩師がそうであったように、学生には、絶対に自分の小さなコピーのような研究はさせず、好きなテーマでどうやったら論文を書けるか、いっしょにフィージビリティーを探っている。そのときに言うのが、自分が面白いと思ったことが、いちばん脳が活性化するのだから、変な義務感で書くな、論文を書くときは、「正しい」ことより、「面白い」ことを考えよ、ということである。
 こういうことは、最近流行の脳科学者も言ってくれる。でも、おそらくは哲学ではずっと前に誰かが言っているのだろうな、哲学の歴史を探れば、すぐ古代ギリシャくらいに行ってしまうのだろうな、と思っている。
 では、スピノザは、どういう文脈で言っていたのか、さすがに大人になって、文脈無視の議論はしたくない。もちろん、ラテン原書に当たる元気はないから、岩波文庫で『エチカ』をパラパラめくっていたら、見つけた。第4部の30項にある。
 実は見つけるのが恐かったのだ。なぜかというと、いくら快をもたらすのが善も、アルコール、ドラッグ、セックスなどの中毒になっていい、とまでいうとは思えない。それはまったく正しいのだが、その留保によって、大抵の哲学とか倫理は陳腐化する。逆に、健康なことが快なのだ、というスポーツ至上主義は、不健康者を排除し、下手するとファシズムに行く。そんなつまらない考えなら知らないほうがいい。
 スピノザは、違っていた。人間は「より大いなる喜び」に刺激されて、それだけ大なる完全性に移行するというのだ。中毒の類は「大いなる喜び」ではないだろう。自分も楽しみながらすばらしい演技を見せるオリンピック選手が感じるのが、こういう喜びではないか。
 さらに気に入ったのが、なぜここまで「喜び」を重視するかである。
「喜びは、我々の利益への正当な顧慮によって統御される限り、決して悪ではあり得ない。これに反して、恐怖に導かれて悪を避けるために善をなす者は、理性に導かれていないのである。」
 恐れるな、大いなる喜びのもとに善をなせ、小心者の保身に付き合うな、と勝手な解釈で読んだ。閉塞的な日本社会に力を与えてくれる言葉だと思うけど、誤読かな?博士論文も書き上げていないから、あまり偉そうなことは言えない。

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頭の痛みを癒す心の痛み

 学会があって、神戸まで来ているが、頭痛が止まない。仰向けになっていると、動脈の血流が重力に逆らわなくてよくなるからか、少しは楽なので、夜は出歩かず寝ている。出張費で来ているので遊びに行く必要はないが、人の話を聞くことによる情報収集が不足とはいえるかも知れない。
 横になって読んだのは、学術書でなく、村山由佳『ダブル・ファンタジー』。これは帯の惹句にあるような恋愛小説ではなく、書く人、創造する人の、身を切るような苦しみを綴った本だ。著者の苦しみと闘いは読む人に力を与えてくれる。

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頭痛からの脱出

 持病というほど大げさなものではないが、仕事やストレスが重なると、大阪時代に抱えた血管性の頭痛がときどき再発する。先週から授業以外のことはほとんどしていなくて、医者から薬ももらったが、頭痛の診断は難しいものなのか、痛みが止まるが目がしばしばして眠くなる副作用がきつくて途中で自分で止めた。
 大阪の医者からもらって助かっていた薬が切れて、その薬を今度の医者に伝えたのだが、自分の著書を振りかざし自信満々で前の医者の判断を覆す。薬が合わないときは医者にもう一度相談という原則は知っているが、たぶんそれを聞く人ではないだろうと思い、やめた。必要なら前の医者にカルテを送ってもらおうと思ったが、まだそういうことは日本では当たり前ではないようだ。
 とりあえず、4日続けて、家に着いたらすぐ寝て8時間以上寝るようにしたら、なんとか治まった。
 今後の対策。大阪の医者は慎重にスキャンをとってから判断した。東京の医者は私の説明から判断した。後者は基本的に説明が悪ければそれは患者の責任だという考え方だ。とすれば、医者を変えるだけではダメで、こちらが客観的なデータを持って提示する必要がある。近日中に脳ドックに行くことにする。
 いずれにしても大阪の若い医者のほうがよかったな。小さなクリニックだったが、診療時間超えても私の頭のスキャンをとってくれていた。

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タクティールケア

 出勤途中の電車の吊り広告で「タクティールケア」という言葉にぶつかる。スウェーデンで確立された認知症の緩和ケアの手法らしい。手で柔らかく撫でることで不安感や痛みを緩和できるという。
 面白いのは、21世紀になってもやはり、こうした医療に関する言葉はラテン語源であることで、ラテン語で触覚のことを tactus というようだが、これと同根なのだろう。緩和ケアも palliative care というそうだが、これも pallium (上衣、マント)が語源らしい。問題は、こういう医学用語は日本人が苦手な分野で、途上国では英語等でダイレクトにラテン語源の言葉が入っているが、日本語はなまじ訳語があるために、英会話教室でも日本人だけ分からないということが結構ある。文化国家だからさ、とうそぶく手もないではないが、なかなか理解してもらえないのが悲しい。

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