グローバリゼーションを教えるには

 国際関係論を大学で教えるものにとって、実は「グローバリゼーション」というのは、なかなか厄介である。近年特に意識されてきたことでもあるし、定義によっては、歴史的にも古くまで遡ることも可能、要は「何であるか」も「何でないのか」も説明しづらい。さらに理論的な説明からはするりと抜けることもある社会的現象でもある。例えば、コカコーラの世界的普及のような。
 90年代の後半の5年間、社会人を経て二度目の大学院生をしていた私に、おぼろげながら理解のヒントを与えてくれたのは、国際政治の先生や同窓の院生たちの「これは社会学がいちばん説明できる概念だ」とか、「社会学から概念を借りてこないとうまく説明できない」という言葉だった。
 日本の「国際化」(グローバル化とは重なるが、ちょっと違う)に関する、学生の卒論をチェックしていて、海外渡航の自由化が1964年、外国産ワインの輸入自由化が1970年ということが、グローバリゼーションの説明に欠かせない分かりやすい史実だと気づく。クラシックな理論や歴史ばかり教えてきた私は、ゴルバチョフの登場でヨーロッパ路線がソ連(ロシア)上空を飛べるようになったといった程度のことは話してきたが、こういうことは話題にしたことはなかった。でも、まさに必要なネタだ。
 賢い人はとっくの昔に気づいていた。現在、ワインでグローバリゼーションを説明した山下範久さんの著書『ワインで考えるグローバリゼーション』(NTT出版ライブラリーレゾナント)が話題になっています。ウェブ上のインタビューも大変面白い。ご自分の生活を豊かにするためにワイン学校で学び、専門の資格もとって、それを教育や著作で社会に還元されるとはすばらしい。大学院時代から、われわれの知らない世界システム論の深い理解を教えてくれた方ですが、さすがです。
 

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やそだゼミで読んだ本、読んでいる本(4)

 国際関係論という間口の広い科目を教えているので、ゼミでは自分の専門ではない本も学生の関心に合わせて読むようにしている。開発や援助に関心のある学生のために、私自身も何らかの説明ができるだろうこと、国連のミレニアム開発目標の理解にも役立つだろうと読んだのが、ジェフリー・サックス『貧困の終焉:2025年までに世界を変える』(早川書房)。NHK-BSハイビジョンの「プレミアム8」のインタビュー番組を録画に取っていたので、参考になるものは多い。ただし、前半は今の学生にはすべてが同時代の経験がない「歴史」で複雑すぎるので、ゼミではミレニアム前後から読み始めた。
Sacks

 援助を考えるのに、ルポなどで伝わってくる現地の人々の状況に感情的に同情してしまうだけでは不十分なので、そもそも経済学者の本流にあって、東欧の経済改革に助言していたサックスの合理的な思考は、頭の整理によい。また、一方で、開発に関わってからのサックスが感じたIMFや世銀への疑問も書かれていて、単なる制度的理解でなく、政治学的理解もできるヒントもある。
 もちろん、現場にいる人にとっては、これでは物足りないし、原則論しか書いていないと感じられるかもしれない。しかし、サックスのような経済学者が出ていかなければ、そもそも経済に関する知識不足で、IMFや世銀には素人扱いされるのではないだろうか。いってみれば、今の日本の民主党がいかに官僚に馬鹿にされずに日本版ポリシー・ユニットを作れるかというときに、こういう人物が要るというよい見本ではないか。
 私の世代は、私たちが学生時代にすでに東欧改革に勤しんでいた若きサックスが、今また途上国の問題に取り組んでいる姿に感動する。あの時代、私たちも報道を通じて、サックス批判を読んで、若い学者が無理をしているという印象を持ったこともなかったわけではなかった。この本は、ボリビア以来、ポーランド、ロシア、インドと世界各地を「往診」してきたサックスの知的自叙伝にもなっている。だから、学生のために読んでいても、教える教師も学問とは何かについて、教えられる本なのだ。
 それにしても、私は学者には向いていないかもしれない。こういう場合、学者なら、ちょっとは批判的に書くべきなのだが、学生の相手をしていると、どうしてもほめるべきところはほめなければという傾きが強くなる。

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やそだゼミで読んだ本、読んでいる本(3)

 新学期の慌ただしいなか、ようやく頭が授業をする体勢に戻ってきた。今年から担当する、コースを選択した2年生に社会科学の手ほどきをする授業で何をやるか考えてテキストに採用したのが、ジャック・アタリ『21世紀の歴史』(作品社)。Attali
 そんなベストセラーを使うなんて、何と安直な、と言われそうだが、理由はそれなりにある。
 実は最初に使おうとしていた本ではない。最初は、ヤーギン&スタニスロー『市場対国家』(上・下2巻、日経ビジネス人文庫)を使おうとしていたのだ。これは、戦後の経済計画やサッチャリズムについてもよい案内になるのだが、必要な部数が集まらなかった。経済学部ではないので、経済史に特化した授業もなく、でも世界金融危機を歴史的に資本主義を振り返る形でじっくり考えたいと思っていて、かつ時事的情報から先を読む練習ということをするためにも、その基盤になる知識や思考、勘の働かせ方を勉強させたいと思った。アタリの本には最初のほうにこのためになるような部分がある。
 社会科学における未来予測というものについても、少し考えて見たかったのが、一つ。若い学生たちにとっては未知のトフラーやセルヴァン=シュレヴェールなどが何で読まれたかも一通り話しておかねばなるまいし、ダンコースやモントゥイユのソ連の崩壊、変質の予測も思い出すし、もっと言えば古典中の古典、マルサス『人口論』だってある意味そう。そそっかしい反共主義者たちのように、マルクスの本を「はずれ」(革命が先進国でなくロシアで起こった、など)と言っても意味がないことも言っておかねばなるまい。
 書いてあることが当たるかどうかということよりも、何を根拠にどこまで言えるか、ということを考えてみる。例えば、アタリの日本の将来への評価は厳しいが、韓国の将来への評価は意外なほど高い。これなどは欧州市場で韓国のサムスンが伸びていることと無関係ではないのではなかろうか。でも、日本の技術の「ガラパゴス化」(日本の携帯電話のように、世界が求めていないところまでオタク的に技術が高度化)が、安価でそこそこ品質のボリュームゾーンに合っていない現状も確かにある。フランス人特有の「自分の判断自信持って断定」調、「鬼面人を驚かす」調も、それ自体面白いだけでなく、いろいろな楽しみ方を学生に教えたい。
 それにしても、最近私が気に入ってしまう本は、アンデルセンにせよ、アレグレにせよ、みな林昌宏氏の訳である。私がフランス好きである大前提のほかに、やはり訳文が読みやすく、頭に入ってくるからだと思う。とにかく、なかなか横文字に手を出さない学生にも英語以外の言語で書かれた良書の良訳がたくさん出るのは助かる。奥付を見ると、林氏は私と同年(1965年)のお生まれであった。ヨーロッパ研究者にも意外に同年生まれの人が多く、センスのいい人たちの年、と勝手に思い込んでいる。

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「不肖・宮嶋」は正しい用法?

 前々から違和感を感じていた表現に、表題のものがある。私の勝手な思い込みかもしれない。もちろん、「不肖」が謙った表現だということは知っているが、正しい用法を調べようと思っても、普通の国語事典でははっきりしない。ネットのさまざまな実例では、辞書にも意味が出ている「わたくし」という意味で広く使われている。
 私の記憶では、私が子供のころ見た、江藤淳がシナリオを書いたNHKの歴史ドラマ『明治の群像』では、伊藤博文が(もちろん江藤が脚本でそう語らせているわけだが)「不肖博文」と自称していたのだ。つまりは、総理大臣・伯爵(後に公爵)になったとはいえ、もともと下級武士、明治維新のさまざまな諸先輩の前では、苗字を偉そうに語るような、そういう大層な者ではございません、という意味合いで使っていたのだ。ただ、そうとも言い切れないニュアンスもあって、博文の名にかけて、というニュアンスや、あるいは歌人や俳人の号(「芭蕉」とか「一茶」)のように、下の名前にプライドのようなものを持っていたような気もする。誤解かもしれないが、明治維新までは武士以外に苗字がなかったことも、そういう意識に影響しているのかと思っていた。ただ、第三者に使う「某」とも違うし、単純に「わたし」でもない気がする。
 これは、まったく専門ではないので、自信が持てないのだ。正直、専門の方に教わりたい。もちろん、体当たり取材で、世界の紛争地に行くカメラマン、宮嶋茂樹氏の本や記事は私も大好きだ。手元にも何冊かあるので、愛読者と言ってもいいだろう。
 国語辞典の用例で、「不肖の弟子」というのがあるが、これを師匠が言うのでなく、弟子のほうが自称に誤用している例もよくあるようだ。どうも、この言葉、しっかり調べないと恥をかきそうだ。だから、結論はここでは、ペンディングにしておく。もし、私のほうが間違っていたら、ここで謝ります。

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総選挙報道から

 総選挙終了後、週刊誌のなかでいち早く出たAERAを読んでいたら、二つほど気になる記事があった。
 片山さつき氏に関する記事で、彼女が学生時代、母校(東大?)に視察にきたサッチャー英元首相の随行者が小泉純一郎だったこと。政界通には有名な話なのかもしれないが、象徴的な話だ。
 武部勤元幹事長のお膝元、北海道北見市で「小泉・武部時代の終焉」という佐藤優、香山リカ両氏などによるシンポジウムが開かれていたこと。面白い企画をする人もいるものだと思って、ネットで検索をかけると、主催したのは、「フォーラム神保町」というメディア関係者の勉強会だった。いろいろなシンポジウムや講座を開いていて、会員優先だが会員以外にも開かれているものもあるようだ。佐藤優氏の神学講座だけでなく、佐藤優氏とハーバーマスを読むという企画も過去にはあったようだ。この界隈で働いているが、こんな面白いことを近くでやっているとは知らなかった。
 

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『地方選のかたち』再読

 実家に帰ると、昔読んだり買ったりした本で、自分の研究には使わないが講義の参考になったり、学生の卒論研究に参考になったりする本を持ち帰ってくる。
 今回持ち帰ったのは、北日本新聞社会部『ドキュメント 地方選のかたち』(北日本新聞社、1999)。超保守・自民党王国の富山県の地方選挙を地元新聞社が追ったルポ。もう10年前の本だが、市町村合併が進む前の地方選挙の問題点が様々に指摘されている。市町村以下の町内会レベルの地区推薦で当選が決まる「超・小選挙区」の市町村議選、市レベルでも起こった無投票全員当選(地方議員の妙味がなくなり定数割れをギリギリ防いだ)など当時の状況が思い出される。
 この本が出たとき、富山県には9市18町8村あった。もともと大きい県ではない。それが今や10市4町1村になった。県庁所在地の富山市の領域は長野・岐阜県境の山間部にまで及ぶ。10年前になり手の不足していた町村議の問題はなくなった。定数減により町内会ベルの人選はもう行えない。役所とのなれ合いも以前のようには易しくないだろう。
 しかし、これは改善だろうか?人々から政治はさらに遠くなり、行政により機械的に処理されることになっただけではないだろうか。
 逆に人口数十万の東京の区はどうなっているのか。細かい専門分野ではないとはいえ、地方自治について語る場合も、もうちょっと現場の雰囲気をつかまないといけない。初めて区議会を傍聴に行くことも考えないといけない。

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吉田茂の駐伊大使時代

 前項のように、まったく遅ればせで麻生和子『父 吉田茂』(光文社知恵の森文庫)を入手する。
 郷里の町の中心街に近い我が家も、ドーナツ化現象でスーパーも電気店も自動車でないと行けない不便な土地になってしまったので、幹線道路沿いのまともな書店に行くのに30分近く歩いた。昔は中心街から馬鹿にして富山弁で「ざいご」(ド田舎)扱いしていたところが今は幹線道路に面した大型店のショッピングの中心になっているのが何とも口惜しい。
 吉田茂はムッソリーニを嫌い、駐イタリア大使時代は積極的に遊んだようだ。家族を連れてイタリア各地を自動車で回ったが、週末の私的な旅行のガソリン代をちゃんと公用と区別するように言い、秘書官にかえって面倒くさい思いをさせていたらしい。ローマの社交界のほうが開放的でロンドンよりもとけ込みやすかったと麻生和子さんが書いている。ただ吉田家が現地の人と深くつきあって心を通わせたのはやはりロンドンのほうらしい。このほか、ローマの聖心学院の使用語はフランス語だったなど、改めてなるほどと思うディテールがあって、面白く読めた。この麻生和子さんの子である麻生首相はヴァティカンを訪問した初のカトリックの日本首相なのである。
 

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政治学研究者と日常生活

 裏玄関(法学部以外)から時事論文などを書きながら政治学というところに入ってきたので、未だに自分は無免許運転の感じがしている。とりわけ理論面で新しいアイディアが何一つ提供できていないのと、もう一つは実践面で何もしていないからだ。
 駒場にヴェネツィア市長で左派の哲学者のカッチャーリが講演に来たとき、「実践なしに政治を語ることは、セックスしないで愛を語るに等しい」と言っていた。後半はともかく、前半は分からないでもない。
 一つだけやりたいことはある。毎日歩いている歩道の再編・改良だ。私がこれまで住んだ足立区、江戸川区(都内でもっとも家賃が安いので)の人がようやくすれ違えるくらいの細い歩道でも樹木が歩道の半分くらいまで植えてあって、これは何か行政の惰性で植えられているなと思っている。環境を錦の御旗に狭い歩道にまでやたら樹木を植えて、公園などの本当の緑の開発をサボり、電動車椅子での移動も想定していないのではないか、樹木業者との利権構造もあるのではないか、などといろいろ疑ってみるものの、研究者として何か書くには都市計画や法規だって調べないと、まともな意見表明にはならない。結局、自分の専門ではない、時間がないという理由で何もしていない。
 この問題ではないが、都市計画にも福祉の視点がないといけないと、広井良典氏が新著『コミュニティを問い直す:つながり・都市・日本社会の未来』(ちくま新書)で越境的に書かれている。Hiroi2前著「持続可能な福祉社会:「もうひとつの日本」の構想」(ちくま新書)でも言及されていた問題をさらに敷衍して語られているようだ。新入生にはやや難しいだろうが、来年の新入生ゼミのテキストに決定!

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やそだゼミで読んだ本、読んでいる本(2)

 環境問題に関心があるという学生たちに応じて、読んだのがクロード・アレグレ『環境問題の本質』(NTT出版、2008年)。Alegre
 やそだゼミ的には、グローバル・イシューをヨーロッパ人がどう考えているかを読める、貴重な本。閣僚も務めた地質学者の本で、各章が「温暖化」「エネルギー」「遺伝子作物」などと個々のイッシューで分かれていて、いろいろな意見を紹介しながら過激な意見を廃してバランスがとれている。
 その意味で環境保護に熱心な人などは物足りないというかもしれないが、少なくとも初めからアメリカを一方的に批判するような本は扱いたくない。環境ブームに警鐘を鳴らしているものでは、同じヨーロッパでより有名なビョルン・ロンボルグの訳書もざっと見たが、気が進まなかった。
 しかし、ネット上のアマゾンの書評などは、それほど評価が高くない。誤訳が多いという指摘については、私の印象では特にそういうところがなくて、これは理系でないと分からないことなのか、どうか、それも分からない。しかし、このテーマの基礎的な認識には悪い本ではないと思う。
 NTT出版は、出す本にあまりはずれがない、新興出版社としてはすごい優秀なところだと思う。

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小池百合子氏の重要な貢献

 学生にアポ時間をリスケされたので、この記事を書いている。こういう場合でも、昨今の就活事情を考えると、とても学生を叱る気にはなれない。4年前期のゼミは毎回、全員揃うことが難しく、授業外にも個別指導を多くして対応しているのが現状だ。
 昨日、書店で見かけ、即購入したのが、小池百合子、畑中美樹『南地中海の新星リビア:高まる日本への期待』(同友館、7月刊)だ。Koike

 テレビ東京のニュースキャスター時代、中東との中継でアラビア語で話していた小池氏がカイロ大学卒であることはよく知られているが、この本の主たる著者は内容から見ておそらく畑中氏で、収録された対談で著名な小池氏を掲げているように思える。それは全然構わないと思う。なかなか日本からではよく分からないカダフィ大佐やリビアの動きがいろいろ分かる。それだけで十分である。
 本自体は著者の対談あり、ビジネスから古代遺跡までの記事、外交関係のクロニクルあり、交流協会の記録ありと形式はバラバラ、情報は雑多で、編集は落ち着かない。ただ、個々の記述自体は面白い。
 実はイタリア経済を影で支えているリビアに、日本がどう関われるか。実はもう関わっている人たちもいて、リビア自慢の製鉄所は実は神戸製鋼が作ったものらしい。まるで韓国や中国で行われたこと(
by 新日鉄)の再演である。
 

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