やそだゼミで読んだ本、読んでいる本(4)

 国際関係論という間口の広い科目を教えているので、ゼミでは自分の専門ではない本も学生の関心に合わせて読むようにしている。開発や援助に関心のある学生のために、私自身も何らかの説明ができるだろうこと、国連のミレニアム開発目標の理解にも役立つだろうと読んだのが、ジェフリー・サックス『貧困の終焉:2025年までに世界を変える』(早川書房)。NHK-BSハイビジョンの「プレミアム8」のインタビュー番組を録画に取っていたので、参考になるものは多い。ただし、前半は今の学生にはすべてが同時代の経験がない「歴史」で複雑すぎるので、ゼミではミレニアム前後から読み始めた。
Sacks

 援助を考えるのに、ルポなどで伝わってくる現地の人々の状況に感情的に同情してしまうだけでは不十分なので、そもそも経済学者の本流にあって、東欧の経済改革に助言していたサックスの合理的な思考は、頭の整理によい。また、一方で、開発に関わってからのサックスが感じたIMFや世銀への疑問も書かれていて、単なる制度的理解でなく、政治学的理解もできるヒントもある。
 もちろん、現場にいる人にとっては、これでは物足りないし、原則論しか書いていないと感じられるかもしれない。しかし、サックスのような経済学者が出ていかなければ、そもそも経済に関する知識不足で、IMFや世銀には素人扱いされるのではないだろうか。いってみれば、今の日本の民主党がいかに官僚に馬鹿にされずに日本版ポリシー・ユニットを作れるかというときに、こういう人物が要るというよい見本ではないか。
 私の世代は、私たちが学生時代にすでに東欧改革に勤しんでいた若きサックスが、今また途上国の問題に取り組んでいる姿に感動する。あの時代、私たちも報道を通じて、サックス批判を読んで、若い学者が無理をしているという印象を持ったこともなかったわけではなかった。この本は、ボリビア以来、ポーランド、ロシア、インドと世界各地を「往診」してきたサックスの知的自叙伝にもなっている。だから、学生のために読んでいても、教える教師も学問とは何かについて、教えられる本なのだ。
 それにしても、私は学者には向いていないかもしれない。こういう場合、学者なら、ちょっとは批判的に書くべきなのだが、学生の相手をしていると、どうしてもほめるべきところはほめなければという傾きが強くなる。

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やそだゼミで読んだ本、読んでいる本(3)

 新学期の慌ただしいなか、ようやく頭が授業をする体勢に戻ってきた。今年から担当する、コースを選択した2年生に社会科学の手ほどきをする授業で何をやるか考えてテキストに採用したのが、ジャック・アタリ『21世紀の歴史』(作品社)。Attali
 そんなベストセラーを使うなんて、何と安直な、と言われそうだが、理由はそれなりにある。
 実は最初に使おうとしていた本ではない。最初は、ヤーギン&スタニスロー『市場対国家』(上・下2巻、日経ビジネス人文庫)を使おうとしていたのだ。これは、戦後の経済計画やサッチャリズムについてもよい案内になるのだが、必要な部数が集まらなかった。経済学部ではないので、経済史に特化した授業もなく、でも世界金融危機を歴史的に資本主義を振り返る形でじっくり考えたいと思っていて、かつ時事的情報から先を読む練習ということをするためにも、その基盤になる知識や思考、勘の働かせ方を勉強させたいと思った。アタリの本には最初のほうにこのためになるような部分がある。
 社会科学における未来予測というものについても、少し考えて見たかったのが、一つ。若い学生たちにとっては未知のトフラーやセルヴァン=シュレヴェールなどが何で読まれたかも一通り話しておかねばなるまいし、ダンコースやモントゥイユのソ連の崩壊、変質の予測も思い出すし、もっと言えば古典中の古典、マルサス『人口論』だってある意味そう。そそっかしい反共主義者たちのように、マルクスの本を「はずれ」(革命が先進国でなくロシアで起こった、など)と言っても意味がないことも言っておかねばなるまい。
 書いてあることが当たるかどうかということよりも、何を根拠にどこまで言えるか、ということを考えてみる。例えば、アタリの日本の将来への評価は厳しいが、韓国の将来への評価は意外なほど高い。これなどは欧州市場で韓国のサムスンが伸びていることと無関係ではないのではなかろうか。でも、日本の技術の「ガラパゴス化」(日本の携帯電話のように、世界が求めていないところまでオタク的に技術が高度化)が、安価でそこそこ品質のボリュームゾーンに合っていない現状も確かにある。フランス人特有の「自分の判断自信持って断定」調、「鬼面人を驚かす」調も、それ自体面白いだけでなく、いろいろな楽しみ方を学生に教えたい。
 それにしても、最近私が気に入ってしまう本は、アンデルセンにせよ、アレグレにせよ、みな林昌宏氏の訳である。私がフランス好きである大前提のほかに、やはり訳文が読みやすく、頭に入ってくるからだと思う。とにかく、なかなか横文字に手を出さない学生にも英語以外の言語で書かれた良書の良訳がたくさん出るのは助かる。奥付を見ると、林氏は私と同年(1965年)のお生まれであった。ヨーロッパ研究者にも意外に同年生まれの人が多く、センスのいい人たちの年、と勝手に思い込んでいる。

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「不肖・宮嶋」は正しい用法?

 前々から違和感を感じていた表現に、表題のものがある。私の勝手な思い込みかもしれない。もちろん、「不肖」が謙った表現だということは知っているが、正しい用法を調べようと思っても、普通の国語事典でははっきりしない。ネットのさまざまな実例では、辞書にも意味が出ている「わたくし」という意味で広く使われている。
 私の記憶では、私が子供のころ見た、江藤淳がシナリオを書いたNHKの歴史ドラマ『明治の群像』では、伊藤博文が(もちろん江藤が脚本でそう語らせているわけだが)「不肖博文」と自称していたのだ。つまりは、総理大臣・伯爵(後に公爵)になったとはいえ、もともと下級武士、明治維新のさまざまな諸先輩の前では、苗字を偉そうに語るような、そういう大層な者ではございません、という意味合いで使っていたのだ。ただ、そうとも言い切れないニュアンスもあって、博文の名にかけて、というニュアンスや、あるいは歌人や俳人の号(「芭蕉」とか「一茶」)のように、下の名前にプライドのようなものを持っていたような気もする。誤解かもしれないが、明治維新までは武士以外に苗字がなかったことも、そういう意識に影響しているのかと思っていた。ただ、第三者に使う「某」とも違うし、単純に「わたし」でもない気がする。
 これは、まったく専門ではないので、自信が持てないのだ。正直、専門の方に教わりたい。もちろん、体当たり取材で、世界の紛争地に行くカメラマン、宮嶋茂樹氏の本や記事は私も大好きだ。手元にも何冊かあるので、愛読者と言ってもいいだろう。
 国語辞典の用例で、「不肖の弟子」というのがあるが、これを師匠が言うのでなく、弟子のほうが自称に誤用している例もよくあるようだ。どうも、この言葉、しっかり調べないと恥をかきそうだ。だから、結論はここでは、ペンディングにしておく。もし、私のほうが間違っていたら、ここで謝ります。

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総選挙報道から

 総選挙終了後、週刊誌のなかでいち早く出たAERAを読んでいたら、二つほど気になる記事があった。
 片山さつき氏に関する記事で、彼女が学生時代、母校(東大?)に視察にきたサッチャー英元首相の随行者が小泉純一郎だったこと。政界通には有名な話なのかもしれないが、象徴的な話だ。
 武部勤元幹事長のお膝元、北海道北見市で「小泉・武部時代の終焉」という佐藤優、香山リカ両氏などによるシンポジウムが開かれていたこと。面白い企画をする人もいるものだと思って、ネットで検索をかけると、主催したのは、「フォーラム神保町」というメディア関係者の勉強会だった。いろいろなシンポジウムや講座を開いていて、会員優先だが会員以外にも開かれているものもあるようだ。佐藤優氏の神学講座だけでなく、佐藤優氏とハーバーマスを読むという企画も過去にはあったようだ。この界隈で働いているが、こんな面白いことを近くでやっているとは知らなかった。
 

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『地方選のかたち』再読

 実家に帰ると、昔読んだり買ったりした本で、自分の研究には使わないが講義の参考になったり、学生の卒論研究に参考になったりする本を持ち帰ってくる。
 今回持ち帰ったのは、北日本新聞社会部『ドキュメント 地方選のかたち』(北日本新聞社、1999)。超保守・自民党王国の富山県の地方選挙を地元新聞社が追ったルポ。もう10年前の本だが、市町村合併が進む前の地方選挙の問題点が様々に指摘されている。市町村以下の町内会レベルの地区推薦で当選が決まる「超・小選挙区」の市町村議選、市レベルでも起こった無投票全員当選(地方議員の妙味がなくなり定数割れをギリギリ防いだ)など当時の状況が思い出される。
 この本が出たとき、富山県には9市18町8村あった。もともと大きい県ではない。それが今や10市4町1村になった。県庁所在地の富山市の領域は長野・岐阜県境の山間部にまで及ぶ。10年前になり手の不足していた町村議の問題はなくなった。定数減により町内会ベルの人選はもう行えない。役所とのなれ合いも以前のようには易しくないだろう。
 しかし、これは改善だろうか?人々から政治はさらに遠くなり、行政により機械的に処理されることになっただけではないだろうか。
 逆に人口数十万の東京の区はどうなっているのか。細かい専門分野ではないとはいえ、地方自治について語る場合も、もうちょっと現場の雰囲気をつかまないといけない。初めて区議会を傍聴に行くことも考えないといけない。

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吉田茂の駐伊大使時代

 前項のように、まったく遅ればせで麻生和子『父 吉田茂』(光文社知恵の森文庫)を入手する。
 郷里の町の中心街に近い我が家も、ドーナツ化現象でスーパーも電気店も自動車でないと行けない不便な土地になってしまったので、幹線道路沿いのまともな書店に行くのに30分近く歩いた。昔は中心街から馬鹿にして富山弁で「ざいご」(ド田舎)扱いしていたところが今は幹線道路に面した大型店のショッピングの中心になっているのが何とも口惜しい。
 吉田茂はムッソリーニを嫌い、駐イタリア大使時代は積極的に遊んだようだ。家族を連れてイタリア各地を自動車で回ったが、週末の私的な旅行のガソリン代をちゃんと公用と区別するように言い、秘書官にかえって面倒くさい思いをさせていたらしい。ローマの社交界のほうが開放的でロンドンよりもとけ込みやすかったと麻生和子さんが書いている。ただ吉田家が現地の人と深くつきあって心を通わせたのはやはりロンドンのほうらしい。このほか、ローマの聖心学院の使用語はフランス語だったなど、改めてなるほどと思うディテールがあって、面白く読めた。この麻生和子さんの子である麻生首相はヴァティカンを訪問した初のカトリックの日本首相なのである。
 

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政治学研究者と日常生活

 裏玄関(法学部以外)から時事論文などを書きながら政治学というところに入ってきたので、未だに自分は無免許運転の感じがしている。とりわけ理論面で新しいアイディアが何一つ提供できていないのと、もう一つは実践面で何もしていないからだ。
 駒場にヴェネツィア市長で左派の哲学者のカッチャーリが講演に来たとき、「実践なしに政治を語ることは、セックスしないで愛を語るに等しい」と言っていた。後半はともかく、前半は分からないでもない。
 一つだけやりたいことはある。毎日歩いている歩道の再編・改良だ。私がこれまで住んだ足立区、江戸川区(都内でもっとも家賃が安いので)の人がようやくすれ違えるくらいの細い歩道でも樹木が歩道の半分くらいまで植えてあって、これは何か行政の惰性で植えられているなと思っている。環境を錦の御旗に狭い歩道にまでやたら樹木を植えて、公園などの本当の緑の開発をサボり、電動車椅子での移動も想定していないのではないか、樹木業者との利権構造もあるのではないか、などといろいろ疑ってみるものの、研究者として何か書くには都市計画や法規だって調べないと、まともな意見表明にはならない。結局、自分の専門ではない、時間がないという理由で何もしていない。
 この問題ではないが、都市計画にも福祉の視点がないといけないと、広井良典氏が新著『コミュニティを問い直す:つながり・都市・日本社会の未来』(ちくま新書)で越境的に書かれている。Hiroi2前著「持続可能な福祉社会:「もうひとつの日本」の構想」(ちくま新書)でも言及されていた問題をさらに敷衍して語られているようだ。新入生にはやや難しいだろうが、来年の新入生ゼミのテキストに決定!

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やそだゼミで読んだ本、読んでいる本(2)

 環境問題に関心があるという学生たちに応じて、読んだのがクロード・アレグレ『環境問題の本質』(NTT出版、2008年)。Alegre
 やそだゼミ的には、グローバル・イシューをヨーロッパ人がどう考えているかを読める、貴重な本。閣僚も務めた地質学者の本で、各章が「温暖化」「エネルギー」「遺伝子作物」などと個々のイッシューで分かれていて、いろいろな意見を紹介しながら過激な意見を廃してバランスがとれている。
 その意味で環境保護に熱心な人などは物足りないというかもしれないが、少なくとも初めからアメリカを一方的に批判するような本は扱いたくない。環境ブームに警鐘を鳴らしているものでは、同じヨーロッパでより有名なビョルン・ロンボルグの訳書もざっと見たが、気が進まなかった。
 しかし、ネット上のアマゾンの書評などは、それほど評価が高くない。誤訳が多いという指摘については、私の印象では特にそういうところがなくて、これは理系でないと分からないことなのか、どうか、それも分からない。しかし、このテーマの基礎的な認識には悪い本ではないと思う。
 NTT出版は、出す本にあまりはずれがない、新興出版社としてはすごい優秀なところだと思う。

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小池百合子氏の重要な貢献

 学生にアポ時間をリスケされたので、この記事を書いている。こういう場合でも、昨今の就活事情を考えると、とても学生を叱る気にはなれない。4年前期のゼミは毎回、全員揃うことが難しく、授業外にも個別指導を多くして対応しているのが現状だ。
 昨日、書店で見かけ、即購入したのが、小池百合子、畑中美樹『南地中海の新星リビア:高まる日本への期待』(同友館、7月刊)だ。Koike

 テレビ東京のニュースキャスター時代、中東との中継でアラビア語で話していた小池氏がカイロ大学卒であることはよく知られているが、この本の主たる著者は内容から見ておそらく畑中氏で、収録された対談で著名な小池氏を掲げているように思える。それは全然構わないと思う。なかなか日本からではよく分からないカダフィ大佐やリビアの動きがいろいろ分かる。それだけで十分である。
 本自体は著者の対談あり、ビジネスから古代遺跡までの記事、外交関係のクロニクルあり、交流協会の記録ありと形式はバラバラ、情報は雑多で、編集は落ち着かない。ただ、個々の記述自体は面白い。
 実はイタリア経済を影で支えているリビアに、日本がどう関われるか。実はもう関わっている人たちもいて、リビア自慢の製鉄所は実は神戸製鋼が作ったものらしい。まるで韓国や中国で行われたこと(
by 新日鉄)の再演である。
 

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やそだゼミで読んだ本、読んでいる本(1)

 卒論ゼミだけでなく、新入生ゼミやいろいろな演習科目で使う文献選定のために、日頃から自分の守備範囲以外の、しかも日本語文献を探さなければいけなくなった。国際関係論などといった間口の広い科目を担当しているため、自分の細かい専門でないもの、また同じ文献を二度使わない(講義科目を除く演習のみ)という痩せ我慢の自己ルールを設定したために、大いに迷う。ブログに書くのは、これを見た友人たち(誰も見ていないかと思ったが意外に読んでくれている人がいる)が、あれはいい、あれはやめろと言ってくれないかと思うからだ。
 新入生ゼミで読んだのは、広井良典『持続可能な福祉社会:「もうひとつの日本」の構想』(ちくま新書)。Hiroi
 この問題でのオピニオンリーダーだし、公共事業が福祉の代替となっていることなど超領域的な分析が多く、「不安定な若者に年金を」という具体的な提言もある。つまりはちゃんと主張のある本で、国際比較など統計や図表も豊富、それでいて思想面への言及もあり単なる政策分析で終わっていないことから、社会科学の総合的な入門にふさわしいと思った。やそだゼミらしく、日欧比較もできる点もよい。
 この本も刊行されて3年、来年は別のテキストも探したいが、今のところ、上記のような諸点を満たす代わりの本が見つからない。
 

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Alice De Gasperi

 先頃、元官僚によって訳されたジャン・モネの回想録は、初の全訳で、訳者は「学者からは文句が出るだろうが」などと序で書いているが、はっきり言って「ひどすぎる」世紀の悪訳である。
 表題は、同書によるデ=ガスペリ本人の人名の誤記であり、デ=ガスペリの娘ではない。Alcide De Gasperi(アルチーデ・デ=ガスペリ)をどうやったらこう誤記できるのか。このほかにも、ちょっとした本で調べればありえないだろう人名表記の誤記がいっぱい。この人は、自分の思った感じで人の名前の読み方を決めてもいいとでも思っているのだろうか。滞仏生活何年ともあるが、それは学識を保証していない。
 かわいそうなのは、序で感謝されている、翻訳に協力した訳者の同僚の人々(この人々を責めてはいけない。最終的に訳者がちゃんとチェックできていれば、何の問題もないのだ)で、このような訳者に感謝されても名誉なこととはならないだろう。

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100歳のノーベル賞受賞者の本の邦訳

 今朝の朝日の書評面によると、このブログでも先日紹介したリータ・レーヴィ=モンタルチーニ女史(生理学者、ノーベル医学生理学賞受賞、イタリア共和国終身上院議員)の本の邦訳が春に出ていたようだ。
 題名も『老後も進化する脳』(朝日新聞出版)。これほど著者と題名がぴったりの本もちょっとない。イタリア語の人名表記がとても正確だなあと思っていたら、イニャツィオ・シローネ『葡萄酒とパン』やフランカ・マニャー二『亡命家族の肖像』などの邦訳をされた齋藤ゆかり氏の訳だった。どれも貴重なお仕事で、現代イタリア理解には欠かせないものだ。ここに挙げたすべての本の著者に共通するもの、それはファシズムからの受難とそれに耐えたレジスタンス。それも華々しい武勲というよりは、知的で地道なレジスタンスだ。
 レーヴィ=モンタルチーニ女史は、もちろんレジスタンスの闘士ではない。しかし人種法制定後の亡命先のベルギーから帰国後、米兵やレジスタンス側の医療にも関わっているし、戦後アメリカで研究成果を上げたことも、物理学のフェルミらと並んでイタリア科学者の名声を高めた戦後の共和国への大貢献である。
 NHKが小田実氏の活動を描いたドキュメンタリーでも、齋藤さんの名前が小田氏本人の会話に出ていた。今回の訳書も3月刊行ということは、ちょうど著者が4月に100歳を迎えた直前に間に合ったわけで、出版時期も最高である。

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Yes I Can

 非常勤で教えている現代南欧・地中海政治外交史(これは副題で、実際の科目名はもっと一般的な表記)で、ネタ作りに買った本の一つに、フランコはヒトラーのユダヤ人迫害に追随しなかったという弁護の本(フランコ夫人などをべた褒めで、やや癖がある本)、Jane & Burt Boyar, Hitler stopped by Francoがあって、序言でこの著者が歴史家ではなく、サミー・デイヴィスJr.(ハーレムに生まれ、公民権運動にも参加しながら、白人女性と結婚し、ユダヤ教に改宗したという人だ)の伝記を書いた作家であることを知った。
 その伝記の題名が、Yes I Can。これって、オバマのYes We Canに関係あるのかな?音楽で白人からも尊敬を集めたのが、サミー・ディヴィスJr.であるわけで、その意味で分野は違うが、パイオニアである共通点はあると思うのだが。オバマの伝記を読んだ人、教えて!(自分ではあまり読みたいと思わない)たぶん、関係はないと思うけど。

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『ゴモッラ』邦訳出てました

 畏友I氏より、先日ここに書いた『ゴモッラ』の邦訳、もう出ているとありがたい指摘が。

 なんと、イタリア文学を数々訳された大久保昭男氏訳で今年初めに出ていました。このころ、引っ越しや家族の葬式(年賀状出せず)で全然新聞を読んでなかったので、知らなかった。

 ロベルト・サヴィアーノ『死都ゴモラ:世界の裏側を支配する暗黒帝国』河出書房新社、2008年1月刊。けっこう評判になっていたみたいで、佐藤優氏も絶賛とのことです。

 自分だけが知らなかったのかな、久しぶりにイタリアに行って、お上りさん気分になっていたみたいで、得々と書いたことが滅茶苦茶恥ずかしい。

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本当に好きな本

 本当に好きな本は、一応学者にはあるまじきことかもしれないが、研究には役立たないが、人生におもしろみを与えてくれる本。今回の旅行では、時間もお金もカツカツで研究書は後で予算で買うことにしたが、この種のものを2,3買わずにはいられなかった。

 まずは、この本『ミロード:イタリアのアングロ(英国)マニアの冒険』。これは、表紙に書いてある惹句で即買い。戦後初の駐英イタリア大使ニコロ・カランディーニはたいそうな英国マニアで、そのイタリア人らしからぬ気品ある物腰に、イタリア外務省内でも「ロード・カランディーニ」とからかわれていたらしい。実際、戦後初期のイタリア外交における重要人物の一人です。

Anglomania

 以前、ベルトルッチの映画『革命前夜』でパルマには戦中でもイギリスびいきが多く、ファッションなどもそうだったというようなことが話されているのを見て気になっていたのですが、イタリア人でも英国調の好きな、絶対そういう流れがどこかにあるはずだ、と思っていたら、この本に遭遇した次第。まだ読んでないけど、絶対におもしろい、はず。

 この出版社「ネーリ・ポッツァ」はなかなか面白い本を出していて、名著『東部アフリカにおけるイタリア人』全4巻を書いた名ジャーナリスト、アンジェロ・デル=ボカが50人の証言を集めた『わたしたちのアフリカ』もここから出ている。要注目。

 

 

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世界の歴史、文庫版

 有名人でもないので、普段は聞かれることはないが、学生や学内メディアなど身近な人たちから聞かれかねない質問で恐れているのは、「愛読書は何ですか?」という質問だ。
「学生に勧めたい本」なら挙げることはできる。「一度は読んでおくべき」という本でもいいからだ。ところが、生涯通じて何度でも読む「座右の書」や、「無人島に持って行きたい一冊」というのは、全然浮かばない。年に一回も開かない本を挙げたり、これ見よがしに凝った選択をするのも好きではない。おそらく「聖書」や「資本論」を挙げる人のように確固たる信念を持っていないからだろうが、自分の読書は底が浅いのだろうか。
 特に愛着は持っていないが、実際にしょっちょう開く本ならある。世界史や各国史の通史シリーズである。職業柄ということもあるし、細かい固有名詞や年号などは覚えていないこと、など幾らでも開く理由はある。特に文庫版の世界史の類は、何回開いたか知らない。何をする気にもなれない無気力なときですら、開くと安心して読み進められる。文庫版だと寝ながらでも読める。何遍読んでも飽きない。
 中学・高校のときから大学までずっとお世話になってきたのは、1970年代に中公文庫に入った全16巻の「世界の歴史」であった。われわれの世代の世界史教科書の執筆者であった村川堅太郎大先生(われわれの先生の先生の世代である)などが書かれていたわけだが、その後は山川の世界各国史(これは文庫本にはならない類)は買って読んでいたが、90年代の中公の新しい「世界の歴史」はハードカバーで出たときには買わなかった。大学院以降は自分の研究とこうした本は無関係だったこともある。
 今年、ようやくこの新しい「世界の歴史」が文庫として刊行が始まった。さすがに旧版は内容が古くなっていたし、大学で1年生の講義を担当すると、やはり高校世界史との連続を意識しないといけないため、専門外の時代・地域についても基本的な知識の確認が必要になる。現在では堅い専門書が売れないために、こういう概説書にかえって新しい解釈がさりげなく叙述されるケースもあり、その辺もチェックしておかないと、ひどく古い解釈で基本事項を語ってしまうかもしれない。
 学生にものの考え方を鍛える良書を勧めることも大事だが、基礎知識の宝庫として、こういう文庫版全集は学生も自室に置く基本レファレンスとして買っておくべきではないかなあ。言っても聞かないと思うけれども。

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旺文社文庫とルビ

 文部科学省の新しい学習指導要領案で、習っていない漢字にルビを打つことを認める方向に方針転換するらしい。私にはまったく分からないのが、これまではルビの代わりに「ちょう戦」のような交ぜ書きをしていたことで、文化庁の文化審議会がその廃止を提言しても、ルビは使用しなかったという。こどもの自習能力をなめていたのか、それとも知識を低い方で平等化しようとしたのか。
 漢字には同音異義語が多く、日本ではそもそも漢字の母国にはない訓読みまで開発し、漢字を意味でいろいろな音に読む(人名に用いたときの自由さを考えれば分かる)のだから、すべての読みを学校で教えることは不可能で、どうしても各自の読書に頼ることになる。しかし、漢和辞典でも多様な読みが出ているから、自分では絞れない。教養ある親がいれば聞く、NHKなどで教養ある人が読むのを聞くなどすればよいが、即効性のあるのがルビである。
 子供のころの私(両親とも働きに出ていて「鍵っ子」だった)を助けてくれたものとして、もはや刊行されていない「旺文社文庫」に今も感謝している。ちょうどまともな文学作品を読むべき年齢(と私が思う)中学に入って初めての夏休み前に、もともと教育現場にセールスが浸透していた旺文社文庫の希望者申し込みの紙が学校で配られて、何冊か注文して読んだ後、自分でも書店で買い始めたと思う。たぶん、一冊目は夏目漱石の『我が輩は猫である』で、当時はそのインテリ的蘊蓄に分からないものも多いままで読んでいたと思うが、意外に楽しく読めた。それは、ルビのおかげである。そもそも明治・大正期の新聞にもルビは打ってあったのだから、当然なのだが。
 実は、ルビは出版社にとってもうれしくない。ないほうが印刷しやすいからだ。旺文社文庫は、もともと教育書の出版社が始めたものだから、ルビの配慮はすごくできていた。解説や資料も丁寧だった。それに従って、たくさんの漢字も覚えられたと思う。
 しかし、同時期に始まった角川の文庫と映画を合体化させた大セールスで、文庫というものの存在は大きく変わった。岩波に代表される教養文庫的なものより、誰でも読めるエンターテイメントが文庫市場の中心になってしまったのだ。
 旺文社文庫も他の文庫にはない、ドーデの『タルタラン・ド・タラスコンの冒険』、マーク・トゥエインの面白話など、有名作家の有名ではない(しかし、その作家の一面をよく表す)作品や、内田百閒ものなど大人の読書通も唸らす独自の路線を図ったのだが、その後いつの間にか発行されなくなってしまっていた。
 私も一通りの読書入門を旺文社文庫でした後、30冊ほどの旺文社文庫は従弟に譲ってしまった。しかし、後にも先にも文庫本の漱石では旺文社文庫の解説がいちばん良かった。商業的な文庫はスター性のある解説者の勝手な思い(それ自体は面白かったりするが)はあるが頼れず、岩波文庫はすごく解説が充実したものもあるが、古典の初心者向きの丁寧な情報は足りない。
 将来お金に余裕ができたら、古本市場とネットで旺文社文庫を全部買いたいくらいである。それを全部読み返す時間はないだろうが、年金生活に入り、頭が弱ってきたら、最後は古典をルビつきで読み直し、正しい読みで読み直してからあの世に行きたいと思う。
 学校には「生きる力」の育成など期待しないでほしい。そんなことまでさせるから、学校の先生が授業を充実できないのだ。せめて、子供が自分でどんどん読書を進める邪魔はしないほうがいい。

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ハリーな町、つくば、富山

アマゾンがハリー・ポッターの新刊予約注文数による日本で一番ハリーな町ランキング100を掲載しています。

詳しく紹介すると著作権に触れるかもしれないので、1位は秘密にして、母校のあるつくばや近隣の牛久が上位なのは、さすがに日本一博士の多い街。つくば効果か、首都圏の住宅地拡大か、松戸、取手、流山、柏など常磐線近辺が以外に熱い。ちょっと前まで「南・東北」かと思っていた茨城県も、もうほとんど埼玉と同じ感じです。

大阪周辺も多くて、結構インテリが多いようで、これまで関西をバカにしてきたことを反省。交通マナーは悪いが、知的でないわけではない、と、評価を訂正します。

郷里の富山県から富山市が入り(高岡も金沢も入らないのはなぜだ)、やはりただの田舎ではないことにほっとする。富山県人から見て近県で文化的に一目置く長野県では松本市、塩尻市が入り、さすがだ。

もちろんハリー・ポッターを読めばインテリというわけでもないですが、普通に暮らすと、大人になるとなかなか英語の本まで読めないものです。田舎に帰ると、本当にそういうところが寂しい。私が都会や大学周辺をなかなか離れられないのもそのため。

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ハリー・ポッターにおける本vs新聞vsネット

ハリー・ポッターの発売開始を数時間前に控えて、2,3日前からその内容の暗示に関わるメディア間の一種の緊張が生まれています。

アメリカの「ニューヨーク・タイムズ」と「ボルチモア・サン」が発売に先立って書評を発表しました。ニューヨーク・タイムズは同紙の書評のエース、ミチコ・カクタニ氏の筆です。さすがに両紙とも伝統ある新聞で、筋書きを安易にばらしたりしませんが、その評価によって勘のいい人たち(両紙の読者には多い)には幾らか内容が想像ができるようになっています。

著者のローリング氏は、子供たちには自力で結末に至ってほしいとウェブサイトで事前報道を無視するように働きかけたようですが、大人の読者も多いこの本、いろいろな思惑が働きます。

ネットにはすでに闇で入手した最終巻を勝手にページ掲載している輩もいるようですが、上記の新聞各紙もネットから入手したのではないとわざわざことわらざるを得ないほど過熱気味です。書評子には出版社が発売前に本や原稿を見せることはあることですが、書評そのものの発表のタイミングについては、これから少しもめるかもしれません。

本というのは、封印されていても物理的には事前に開封できるものですから、事前漏洩はあり得ることで、おそらく本の形でなく、ネット上での刊行ならば発信先のセキュリティーを厳格にすれば逆に秘密が特定の時間までは隠せるはずですが、本であるがゆえに事前にネットに暴露されるという、いかにも今日的なメディアの問題を凝縮した光景です。

こういう見方はいけないのかもしれませんが、私はむしろこの状況は各メディアがそれぞれの意地を見せているようで好感すら持ちました。本の著者は本の読者をまず大事にし、新聞は情報を早く得たい新聞の読者を大事にし、ネットの事前公開は明らかに違法ですが、そこに若干ですが、旧式メディアに対するプロテストも感じなくはないです。

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今更、レーニン伝を買う

大学の生協で今更ながら、トロツキーの『レーニン』の文庫新訳を買う。
買った理由は、
1.近年の出版界の奇跡、光文社古典新訳文庫の1巻だったこと。イタリアで超有名だが日本で全然知られていないブッツァーティを出したすごい文庫。
2.この本の副題「伝記のための覚え書」がスピネッリ(私が研究しているイタリアの連邦主義者)の伝記の副題にも使われていたことに気づく。もじりに気づかないのはインテリじゃない。恥ずかしい。
3.訳者の森田氏が1965年生まれの大学非常勤講師。(勝手な親近感)
4.トロツキーの序言の追記にしびれた。「レーニンがレニングラードで逮捕されたと言えるだろうか」この本が出た頃の他の本にある倒錯的な(帝政期の記述なのにレニングラードと書く)記述批判であると同時にサンクト・ペテルブルクに戻った今を予言するような言葉。「この新しい都市名(レニングラード)も、おそらく何年、何十年と立てば、現実的な歴史的意味を失うだろう。」1924年の言葉。
ちなみにこれを書いているとき、レニングラードと入力すると、ワープロソフトが勝手にサンクトペテルブルクですよ、と茶々を入れる。うるさい。私とトロツキーの間に入らないでくれ。

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なぜイタリアを落としたのか

年初に出た岩波文庫の『世界憲法集』(新版)から旧版にあったベルギーとイタリアが落ちました。編者も「できれば収録したかった」と書いておられるのに、なぜ入らなかったのだろう。文庫本として厚くなりすぎたのだろうか。

米仏独加日中露韓スイスが収録なので、憲法典のない(憲法的な法秩序がないという訳ではないが)イギリスを除ければ、他のG8(G9)も皆入っているのにつくづく惜しい。今の国力以上に歴史的意味のある憲法なのだが。

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頭の柔らかい著者の本2冊

実は私は自宅に洗濯機を持っていません。大阪には長居しないだろうと思い、引っ越しの大荷物になるのを嫌ったのです。(本やがらくたで置くスペースがないこともありますが)安普請のアパートで隣室の洗濯機の音が週末うるさく、自分ではああいう音を出すまいと思ったこともあります。当然、コインランドリーを使うわけですが、待合いのスペースがないので、こうして漫画喫茶に入ってブログなんぞ書きつつ、少し時間をつぶすこともあります。近くの駅のコーヒー店がつぶれ、さすがにマックのコーヒーは安くてもイヤ、本当にこの郊外の阪急沿線の文化の乏しさに嘆きたくなります。

がんばって公園やランドリーの小さなスペースで本を読むこともあります。しかし、最近それに適した本は2冊見つけました。どちらも思想系ですが、柔らかい頭の著書が書いたものです。

一冊目は、蔵研也『リバタリアン宣言』朝日新書。著者はわたしの高校の同級生です。私自身は進学校の落ちこぼれでしたので、著者の名誉のため、友人を名乗るのはやめておきます。しかし、やはり一時期同じ空気を吸っていた記憶から、著者の若い頃の明晰さがずっと続いていることが確認できたし、青年期の著者なりの思想遍歴の跡もうかがえて、知人ゆえの面白さは感じました。

日本ではこういう思想はどうしても受けないのですが、現代を読み解くには、アナーキーなリバタリアンの思考実験は必要不可欠だと思います。彼の本は、姉歯建築士や警察捜査の問題など現代の日本の事象をうまく読み込んでリバタリアン思想を理解させてくれるという親切な本です。この本を「単純」と決めつけ、その例示について個々突っ込んでいる書評が多いのですが、それはいささか使用上の注意を読んでいない類の批評です。この本は、知能のトレーニングブックですから。この本を読んだ後にどういう小さな実践からより自由な社会を作っていくかは読んだ人自身の仕事でしょう。

もう一冊は、東浩紀、北田暁大『東京から考える』NHKブックス。東京の都市分析を手がかりに社会構造、イメージ、ジェンダー、自由、およそ現代思想のあらゆる論点を同時に考えていく、そして実はそれが主軸であるという本当に面白い本です。わたしも東京のど真ん中に住んだことはないのですが、その周辺を実に19年もうろうろしていたので、個々のトポスがよく分かります。実際、日本で思想を語るのに東京を外して語れませんから、実は実にまっとうな試みなのに、楽しさを忘れていない。年少の著者たちの才能に敬服します。

大阪では、絶対にこういう本は書けないと思います。やはり東京に比べれば、横浜のような「巨大な地方都市」だと思います。これは悪い意味でなく、東京からそれなりに自律しているということです。その他の都市は、人工都市であったり、非常に空虚な町であったりするわけですから。

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本邦本格EU本の時代!

大阪市内の淳久堂で中村民雄・須網隆夫編著『EU法基本判例集』を買う。日本のEU研究もここまで進んだかと感嘆。法学の先生方の政治的嗅覚も侮れず。どうする、政治学者?でも、今年から来年にもう一つすごいのが出ます。歴史で。

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私はなぜ週刊誌が好きか

 私は週刊誌を偏愛しています。

 高校から大学、大学院の初期までは『朝日ジャーナル』でした。最初に読み始めたときは、「光芒の1920年代」という連載があって、アベル・ガンス、エイゼンシュタインの映画、ブレヒトなど、田舎都市では理解のヒントになるものすらなかったけれど、なぜか頑張って読んでいた気がします。大学に入った年に筑紫哲也が編集長になり、硬派の雑誌としては売れ出して、浅田彰とともに、だれもがフランス哲学、文学の翻訳口調を真似だしました。しかし、やがて伊藤編集長から下村編集長になると、変にフェミニズムの入った女性誌の悪いところだけ入れたような軽いものになり、やはりというか休刊になってしまったものです。

 毎週読むものがなくなったとき、最初の会社勤めをしました。そこはD総研といい、証券系の調査会社でしたが、記事を書く仕事なので、まずは新人社員の教育として、M新聞出身のH部長に、テーマを出されて作文の提出を求められました。テーマは「鼻」。「花」の誤植ではありません。学生というか学者になりたくてなれなかった(後で大学院に入りなおすことになります)気分そのままに、シラノの大鼻とシラノに例えられることも多かったド・ゴールを引き合いにして芥川のアフォリズムを真似た、青臭いエッセーを出しました。

 返ってきた評価は、ほぼゼロ評価で、「このような文は読者に、書き手のインテリ臭さを感じさせて敬遠させる。われわれの仕事は売文、売れる文であり、読者にスッと入ってくる文でなくてはならない。」H部長の具体的なアドバイスは、知識が豊富でありながら、読者に嫌味な感じを与えない司馬遼太郎さん(彼自身が産経新聞の出身)が当時『週刊朝日』に掲載していた紀行エッセー「街道を行く」の連載でした。

 たまたま、当時このエッセーが東大のある本郷界隈を扱っていたことから、大学という場が好きな私にも楽しく読めて、ほかの記事を読んでいるうちに、確かに内容は易しいが、こういう風に分かりやすく書くには、いろいろ工夫がいるな、とようやく分かってきました。

 そのあとに自分で論文を書くようになっても、基本的にいろいろな小ネタを盛り込みすぎて話題豊富だが、論理明確でないという友人評を受ける私ですが、逆に話すほうでは、週刊誌のリズムというか、筆致が大いに参考になっています。

 このあとで、私が知ったほかの週刊誌の効能は意外なものでした。研究や文章を仕事にしている人のイライラしたときの気晴らしや何か事故にあったときのリハビリには週刊誌がいい、と医師がインタビューで答えていたのです。こういう人が仕事で行き詰ったときは、自分が精魂入れている中心的テーマから一時的に離れたほうがいいが、まったく別の分野ではかえってそれがストレスになることがあるというのです。これは、私が今日まで実感していることです。

 ただ、子供の頃から写真が好きで、写真雑誌や写真美術書もよく見る私は、表紙やグラビアにも脱線的に開眼してしまいました。もともと、いろいろな雑誌の綺麗な写真を切り取って保存ることをよくやっていた私は、部長の勧めるまま『週刊朝日』を毎号買って読んでいるうちに、当時、篠山紀信が撮っていた表紙も好きになってしまったのです。

 篠山紀信といえば、今は週刊ポストの「アカルイハダカ」などが有名ですが、私の世代には「写楽」という写真雑誌で山口百恵のビキニ写真を撮った伝説のカメラマンです。90年代前半の『週刊朝日』の表紙は、まるで無くなった『朝日ジャーナル』のポップな部分が移ってきたような軽いタッチの題字に白地バックのシンプルな画面に時代のモデル、タレントたちが毎週登場しました。松雪泰子、緒川たまきのヴェールをつけた貴婦人風の像など、今も頭に浮かびます。

 雑誌は溜まると捨てざるを得ませんが、この表紙が捨てがたく、今日までほぼ毎号クリアファイルにストックしています。10年も経つと、これは一種の社会風俗資料です。ですから、『週刊朝日』が編集長の交代で、『週刊新潮』のような絵になったとき、苦情の葉書を書いたものです。いわく、「週刊誌は時代を切り取るものだ。鮮度が大事で発売日に買わないと、たちまち情報が風化するくらいだ。その時代時代を表すタレントたちが表紙に出ているからこそ、時代を共感できるし、都市生活を実感できる。」

 その後、別に私の葉書に関係なく、表紙は写真に戻り、むしろ女性カメラマンによるライブな写真を掲載するようになりました。ときどき、絵に描いたような美人をそのまま撮るのに抵抗を感じて、そのまま撮るだけで美しい伊藤美咲などをわざとワイルドに撮ろうとして失敗していることもあるけれど、基本的に毎週楽しみにしているのです。流行のモデルなども分かるし。

 90年代後半になると、それまでややお色気路線だった『週刊文春』の巻頭グラビア「原色美女図鑑」(タイトルがオッサンですなあ)が、むしろ美しい写真に路線変更してから、こちらも買うようになってしまいました。本当にクオリティ高いですよ。

 国外に行くとき、週刊誌を買いもらすことだけが気がかりです。しかし、定期購読にしないのは、発売日(都心では発売日前)に、できるだけ傷のないのを買うという至上命題が私にあるからです。自分の好きな研究以外で、これがほとんど唯一の趣味なのです。高い写真集を買うお金はないので。

 多分、将来ホームレスになっても、ゴミ箱から週刊誌を拾って読むでしょう。

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