イタリアの憲法改正に関する国民投票(主な内容)

イタリアの国民投票について、主な内容をまとめてみた。今回の改正はもっぱら統治機構に関わることだけで、人権部分には関わらない。

(1) 対等な両院の解消
 今回の憲法改正の最大の重点は、イタリア特有の上下両院の完全な対等性の解消にある。現行憲法第57条の改正により、下院は国家を代表する院となり、内閣の信任に独占的に関わることになる。一般の法案は下院のみの採決で成立し、その中には条約の承認や開戦の決定も含まれる。
 なお、下院については、今回の投票に先立ち、現国会を選んだ旧選挙法を改正した新しい選挙法が成立している。ポイントはこれまで勝者の選挙連合(多くは、同じ首相候補を推す複数の政党からなる)に与えられていた勝者プレミアムが勝者の政党に与えられることである。
 一方、今回の改正で、上院は、国民の直接選挙ではなくなり、内閣信任には関わらない、地方代表が集まる院となる。地方に関する法律に関わるほか、EUに関する政策と法律にも関わる。議員定数は現在の315人(元大統領と5人以下の大統領指名による終身上院議員を除く)から大幅に削減し、100人となる。ただし、95人は各州から人口規模により各州2人以上(現在の人口に合わせると、2人から14人までに分かれる) を、州議会議員から比例代表の原則に従って、ただし1人は州内の市町村長(州議会議員との兼職不可)のなかから、州議会が選ぶ。トレンティーノ=アルト・アディジェ州だけは、イタリア語圏のトレント自治県議会とドイツ語圏のボルツァーノ自治県議会からそれぞれ2人(うち1人は市町村長)ずつ選出する。つまり、95人のうち、74人が州(自治県)議会議員、21人が市町村長と兼職になる。ただし、選出方法の細則は法律によるので、それについては今後も議論が可能である。
 他の5人は、現行の終身上院議員 (共和国に高く貢献した社会、科学、文学、芸術分野の功労者から選ぶ)と同様に大統領の任命による。最後の大統領選出の5人については、地方代表の性格は付けられておらず、終身上院議員の暫定的継続措置の意味合いが強い。
 なお、上院で議員数が削減されるだけでなく、州(自治県)議会議員や市町村長を兼職するため、歳費は地方自治体持ちとなり、国庫からは支出されなくなるので、政府予算の節約になる。一方、国会議員には任期中不逮捕特権があるため、地方首長が議員としての特権を悪用して地元自治体で汚職を行わないかという批判がある。

(2) 提案型国民投票の導入
 国民投票には、従来の法律(行政措置を含む)の廃止、憲法改正諮問の国民投票に加え、新しく法律の制定を求める提案型の国民投票が追加される。ただし、国民投票実施請求のために必要な署名は、その投票の種類を問わず、すべて15万人となる。
 戦後のイタリアが重要な争点の決着に国民投票を多く利用してきたことはよく知られている 。現在、イタリアでは有権者5万人以上の署名か、5つ以上の州議会の請求があれば、憲法裁判所の合憲性審査を経て、国民投票を実施することができる。投票結果が有効となる最低投票率(50%)の設定があるが、憲法改正を問う国民投票では最低投票率の設定はなく、これは今回の国民投票にも当てはまる。
 憲法改正の是非を問う国民投票にも前例があり、2001年の国民投票では地方分権が強化された。しかし、これまで国家の統治機構の根幹については大きな憲法改正はなかったといってよい。
 なお、極めてまれな例だが、諮問型の国民投票が行われたことが1回だけある。これは、1989年6月、欧州議会選挙と同時に行われたが、ECが連合となる過程で欧州議会に制憲議会の役目を認めることへの賛否を問うもので、88.03%の賛成を得ている。これと同様の投票は現在、五つ星運動がユーロ圏残留・離脱を問う国民投票の実施を訴えている 。
 いずれにしても、国民投票の種類が増えるのは国民の自発的意思による社会変革の手段として良いことに思えるが、必要署名数が15万人に上がるのは、むしろ国民の意思が反映しにくくなるという議論は当然あり得る。

(3) 地方制度の改革
 憲法第2部第5章にある地方自治の規定については、長くイタリアの地方制度に存続してきた現在107ある県(provincia)は廃止される(トレンティーノ=アルト・アディジェ州のボルツァーノ、トレント両自治県を除く)。
もともと県は、統一国家の先兵として、フランスをモデルに国家治安警察など国家の警察権の行使を全国隅々まで行きわたらせるために設置された。地理的名称として後発の州以上に長く用いられ、国民の生活に浸透している。
戦後、共和国憲法で予定されていた州(regione)の設置が1970年まで遅れたたために、県は市町村と国家の間で一定の役割を持ち続けたが、主要都市の大都市圏化と州の設置、州知事の公選による州の権限の強化は、やがて県の権力の空洞化をもたらした。現在では県知事は主要都市の市長村長よりも影が薄く、キャリアの上でも県知事は州知事や有力市長に比べても優位にはない。
 そして、近年では行財政改革の中で、経費削減の面からも、県の存在意義自体が問われるようになった。モンティ政権期から一部の県の廃止は検討されていたが、レンツィ政権のもとで一部の県の再編が実施された。まず、2015年にローマ、ミラノなど14の県 は、大都市圏(citta metropolitana)となった。同時に、シチーリア州(特別自治州)では、パレルモ、カターニャ、メッシーナの3県がローマなどと同様の大都市圏となったのと同時に、アグリジェントなど残りの6県は、県を廃し、コムーネ(市町村)連合となった。また、2016年に入って、サルデーニャ州(特別自治州)の4県 は、2012年5月に行われた同州の住民投票の結果に従い、廃止され、カッリャリ大都市圏、サッサリ県、ヌオーロ県にそれぞれ吸収された。
 しかし、今回の改正では2自治県を除くすべての県が廃止となる。その結果、州の権限は強化されるが、コストの面からは県の廃止によるコスト減が州のコスト増を上回るかどうかは微妙である。また、州の強化といっても、中央政府に対して地方政府への分権が大きく進むとは必ずしも言えない 。

(4) 国家経済労働評議会の廃止
 国家経済労働評議会(Consiglio nazionale dell'economia e del lavoro, CNEL)は廃止される。CNELは、共和国憲法が求める経済・社会分野での協調を実現するために1957年に設置された、財界と労働界の代表者への諮問機関 であったが、政府と経団連(Confindustria)などの経済団体や3大労組との間での政策協議は、この常設の評議会でなくとも行われているとして、その存在意義がなくなったという判断による。ただし、この廃止によるコスト減は実は年2300万ユーロに過ぎない 。

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ヨーロッパの守護聖人たち

 マザー・テレサが列聖された。つまりコルカタ(カルカッタ)の聖テレサとなったわけだが、同時に彼女は毎年行われるカトリックの「世界青年の日」と自身が創設した「神の愛の宣教者会」(Missionaries of Charity)の守護聖人となる。
 この「守護聖人」(patron saint)が気になって勉強し直しているのは、輪講の「ヨーロッパ地域文化入門」で、これまで「ヨーロッパ統合の父たち」について話してきたのに飽きて、今年から「ヨーロッパのシンボル」という表題に代えたからで、聖ベネディクトを始めとして6人もいる「ヨーロッパの守護聖人たち」についても言及しようとしているからだ。もっとも、6人いてもメインはあくまで聖ベネディクトであるらしい。
 実は、聖ベネディクトがヨーロッパの守護聖人であると知ったのは、ヨーロッパ諸国が毎年共通テーマで発行している「ヨーロッパ切手」で「人物」をテーマとした年に、複数の国が取り上げたのがEUの父ジャン・モネとヨーロッパの守護聖人である聖ベネディクトだったからだ。
 私も一応、西洋史学の卒業なので、修道会などの重要性は知っていた。ただ、「ヨーロッパ」とは、ヨーロッパ人にとっても当たり前の認識ではなく、歴史的に形成されてきたものだ。また、カトリック教会についていえば、当然ヨーロッパでの布教に貢献したことが大きく、パウロ6世によってヨーロッパの守護聖人にされた聖ベネディクト以外の5人がヨーロッパの守護聖人とされたのは、ヨハネ=パウロ2世の時代であることもよく理解できる。北欧や東欧の布教に貢献した聖人もいることは、それぞれにヨーロッパ的役割を演じているからだろうが、このco-patronageというのが、なんとも興味を引くのである。
  ヨーロッパの街々を旅して、その街の守護聖人が誰かという話を聞くのは楽しいものだが、守護聖人にもいろいろあり、特定の職種の守護聖人もいるし、ヨーロッパの守護聖人の一人であるシエナの聖カタリナ(カテリーナ)のように幾つも「掛け持ち」している守護聖人もいるのである。

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モンティ首相にちなむジョーク

 イタリアの財政危機を一服させ、イタリアの国家的信用を一人で担っている観のある、マリオ・モンティ首相。世界的に知られた経済学者にして、元EU委員、知的で完璧なイメージのモンティ首相について、ウェブ上でもいろいろなジョークが作られた。それらをまとめた本から、営業妨害にならない程度に、少し紹介しよう。

 まず、その完璧さは、無謬性を持っているとされるローマ教皇にも匹敵するというジョーク。
「マリオ・モンティとローマ教皇が空港で出会って、挨拶した。『どうか私に祝福を、聖下!』と教皇が言った。」

 真の知識人としての丁寧な言葉遣いについてのジョーク。
「マリオ・モンティと会談するとき、ボッシやディ・ピエトロは彼らが不慣れな言語で話さなければならない。それは、イタリア語だ。」
イタリア語を「接続法」にした別バージョンあり。ポピュリスト政治家たちの野卑な言葉を皮肉ったもの。

 モンティの言葉は、国際金融界も信用する。
「東京市場は、マリオ・モンティが朝のコーヒーを飲んだことを確認してから、引ける」
日本と時差が8時間、モンティが起きていれば大丈夫。

 スキャンダルのない、マジメな生活態度について。
「マリオ・モンティがお酒を飲むと、お酒のほうが酔っぱらう。」

 最後に、もはや神の領域に近い、ナンセンスもの。
「ニーチェが『ツァラトゥストラはこう言った』を書いたとき、ツァラトゥストラはすでに『マリオ・モンティはこう言った』を書き上げていた。」
その言葉、そのご託宣、ありがたや。
 

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首都圏の都市計画に変えようはないのか?

 私は江戸川区に住んでいる。都心に近く、たぶん送電線の関係か、幾つかのライフラインに関わる施設のおかげで、計画停電の対象から外されている。そういえば、足立区は今回ほとんどが対象地域だが、以前住んでいた足立区中川は下水処理場があるせいか、やはり対象外だ。足立区中川の住民の最寄り駅は歩いて10〜15分ほどの亀有であるが、漫画で有名な葛飾区亀有は対象地域である。
 もちろん、計画停電の対象外ではあっても、可能な限り節電に努め、午後6時から8時の間は、部屋のエアコンを点けず、キッチンに立ち、電灯1つ点けてガス台で料理をしている。ふだん作らない料理を作ったりして、なんとか自分なりに、この期間を楽しもうとしている。寝るときは、電気は用心のための小さな電灯のみで、暖房は切っている。
 地震の起きた11日は仕事で都心の職場にいたが、すぐ地下鉄も止まったので、テレビで津波の映像を見た後、4時半の段階で「これは動かない」と判断して、徒歩で3時間かけて自宅に帰った。偶然だが、神保町の交差点から靖国通りを東に道なりに行くと、京葉道につながる。つまり、職場近くの交差点からただ東に向かっていけばいいという、ものすごく分かりやすいルートなのである。初めはそうと知らず、途中のコンビニで道路地図を買ったが、すぐ不要と気づいた。ただ、道路地図は、もし渡れない橋があったときは、迂回路を探すのに必要だ。それにしても、歩道が渋滞というのは、初めての経験だった。
 今回ほど、都心に近いところに住んでよかったと思うことはない。もっとも、これは地震を見越して選んだのではない。長く非常勤の貧乏生活を過ごした後、ようやく安定的な生活に入った数年前に考えた生活防衛の戦略だ。
 日本の先行きに悲観的な私は、生活防衛のために、住居はぜいたくできないと思った。江戸川区は足立区と並んで家賃が安いところだ。江戸川区は本格的な大地震が来たら、液状化現象が起きると言われているから、金持ちは絶対に住まない。しかし、物事にはリスクの正しい計算が必要で、ここでひどい液状化が起きるほどなら、東京という街自体、危ないだろう。そのときはどっちみちダメだ。
 それなら、高い買い物をして、家を地震につぶされた挙げ句に、もう存在しない家のためにローンを払い続ける(こういう無茶なローンになっているところがアメリカの銀行と違い、日本という国は銀行に甘く、国民に冷たいのである)というバカらしいことはしないほうがいい。一般に家賃の上限は収入の3分の1といわれるが、そのさらに半分くらいの水準を目指した。今住んでいるところの家賃月5万1千円(管理費込み)は、都内で生活保護で認められている家賃の上限よりも低い。
 もう一つは、運賃が安いところだ。家から最寄り駅には15分歩くが、歩くのにちょうどいい位だし、職場は神保町の出口の一つから目の前に出る。乗車時間25分も、立って辛くない。何よりも遅刻が少なくて済む。
 都心からの距離が決定的に重要だと思っているのは、何年か前に、職場から引退したら交通費は出ないという当たり前のことに気づいたからである。千葉ニュータウンで学習塾の講師をしていたとき、会社から交通費は出たが、都内の亀有のアパートから片道700円以上(今より北総線が高かった)かかっていた。亀有から都心に出るにも最低でも二、三百円はかかる。老後になったら、都心まで片道千円以上も自分では払えないな、こんなところには住めないな、と思ったものである。老人向けの割引や無料切符があっても、そういうものの対象はせいぜい区内だろう。収入も少ない中で、都心に出られないとなれば、文化から遠ざかる。幸い、江東地区なら、もともと海だったのを埋め立てたところだし、途中に高い山はない。気力、体力があれば、時間をかければ、いざというときは自転車でもいける。引退したら、時間だけはあるだろう。
 自分のこうした変なこだわりを他の人に勧めはしない。しかし、大量のエネルギーを使いまくって、関東平野のどこからでも都心に通勤、通学できるという今のシステムは、やはり日本の経済が常に絶好調で、自然の脅威からフリーであるという、無茶な前提に立ってはいなかったか。確かに拡張的な経済のほうが、派生的なビジネスを発生させ、それが余剰の文化として面白いものを生むのだが、野放図な経済の拡大は、やはり持続不可能ではなかったのか。
 今さら、広がるにまかせた首都圏をコンパクトにまとめるのは無理だが、無理な長距離、多方向、多中心のベクトルがぐちゃぐちゃに集まったこの地域を、少しは整理しなくていいのだろうか。
 とりあえず、日照権の廃止による、都心への集住のすすめは政府に考えてほしい。山手線内にある低層家屋には増税していい。昔から住んでいる人にとってはもちろん故郷ではあるが、東京を支えている多数のサラリーマンに長時間の通勤を強いることと、どちらが重要だろうか?

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二元代表制を愛する人たち

 さっぱり分からないのが、名古屋市議選で河村市長が率いる「減税日本」が第一党となったことなどを指して、ファシズムとか大政翼賛会とバカの一つ覚えのように言う人々である。たぶん、こういう表現を使う人は、ファシズムや大政翼賛会そのものをご存じないのだろう。「ポピュリスト(大衆迎合者)」というのは、まだ分からないでもない。
 実際にはアメリカの大統領制と違って、予算の編成権が役所にある以上、伝統的な地方議会は、市役所に対し、公共事業などの果実を求める建設業界などの利益を代表する議員が予算をねだる、むしろ談合的な非民主的地方政治を行ってきた。
 河村氏の試みが成功するかどうかはともかく、中央政界で埒が明かない「仕分け」よりも、総額を削って、本当に必要な物だけ残せと言って、官僚や議員たちにムダを削らせるというのは、一つの手法である。
 イタリアでは州議会選挙の比例名簿トップが市長(市議会議長)候補であり、その意味で一元的である。ヨーロッパではこういう自治体は珍しくない。

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全国植樹祭とナショナリズム

 これは、たぶん日本史の専門家などはとっくにご存じのテーマである。
 花粉症の季節で、なんでわれわれはこんなに杉花粉に苦しまなければいけないのか、という声がよくツイッターに上がる。それに対する答えは、日本の森林政策に問題がある、全国植樹祭を毎年やって、やたら杉を植えてきた歴史がある。生態系の保存を考えれば広葉樹林でもよかったものを、戦後の復興期には木材としての用途を考えざるを得なかった、などなど。
 私は、もともとマニアックなところからしか、ものごとに関心を持てない。そういえば、毎年の記念切手に国土緑化運動、全国植樹祭があるな、と。天皇陛下が植樹をすることも有名だ。
 ところが、この植樹祭と皇室との関係は、自明のことではない。神々の国、日本で自然に関する祭祀を司る最高位に位置するのは古来、天皇である。ところが、この植樹祭のもとになったのは、アメリカの影響を受けた「愛林日」なのだ。
 全国植樹祭を行う緑化運動推進機構のホームページには戦後の植樹祭の歴史しか書いていない。しかし、現在の植樹祭の初回が行われた1950年の前に、占領下で戦前の「愛林日」が復活し、そこに昭和天皇が出席していることが書いてあるのだ。
 そこで、戦前の「愛林日」について検索すると、関東森林管理局のホームページに、戦前の第1回の愛林日の行事が筑波山で行われたことが書かれ、4月3日の神武天皇祭をはさむ三日間にこの行事が行われていたことが分かる。筑波山といい、神武天皇といい、相当に神様、天皇制との関係が深そうだ。というか、アメリカや外国で行われていた「愛林日」が、戦争に向かっていく時代のなかで、ソフトな日本的ナショナリズムの装置に換骨奪胎されたのだろう。
 終戦時に途絶えていた愛林日を占領下で復活させようとした人々の気持ちは分かるし、そこにはピュアな自然礼讃や戦後の国土安定を願う気持ちがあったと思うけれど、エコとナショナリズムの整理のつかない関係もうかがえて、どうも落ち着かないものも感じるのである。

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欧州ステレオタイプ地図

 Yahoo! Italiaが、ロンドン在住ブルガリア人デザイナーが描いた「ステレオタイプ(紋切り型)地図」を紹介しているが、これがとても面白い。英仏独伊の4ヶ国民とEUが自国と他国をどう思っているか、その思い込みのステレオタイプ(紋切り型)を5種の地図で描いている。
 イタリアの中心地域である北中部の人たちから見ると、貧しく治安に問題のある南部は「エチオピア」、マフィアのいるシチーリア島は「ソマリア」。海がキレイなサルデーニャ島は、ここに別荘を持っているベルルスコーニの国(ベルルスコーニア)。フランスは、イタリア出身のサルコジ大統領夫人「カルラ・ブルーニ帝国」。
 フランス人にとってベルギー、スイスは「半フランス」、スペインは「フラメンコ・ダンサー」。ドイツ人にとってスペインは「経済的なホテル」で、イタリアは「ピッツァと美術館」、ウクライナは「ガスの通路」。イギリスにとって大陸は「欧州悪の連邦帝国」。EUにとって域内は「補助金受給農民連合」、ウクライナは「ガス泥棒」、トルコは「ノーYou Tubeランド」。
 この面白地図そのものは、私が見た上記のYahoo! Italiaの記事より、そこにリンクしてあった作者Yanko Tsvetkov氏のサイトのほうが大きくて見やすい。

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ベルルスコーニ、最大のピンチ

 ハイティーンの少女を買春していたのではないかとの疑惑で、汚職疑惑なら嫌疑は政敵の陰謀だと言えても、少女買春となれば誰も弁護したがらず、さしものベルルスコーニもかつてないほどのピンチである。前回の信任がギリギリだったので、次に信任がかかった投票になれば過半数はとれないとの分析も出てきた。
 ただ、問題は後釜がいるかということである。与党ではフィーニ派が去ったために逆に人材不足で、ベルルスコーニに変わる候補は見つかりそうにない。もちろん、フィーニ自身も可能性はまずない。
 昔、久米宏のニュースステーションでやっていた単純な積み木計算をすると、下院では、ベルルスコーニの与党「自由の人民」233議席+ボッシの北部同盟59議席が合計で292票、対する最大野党・民主党206議席+「価値あるイタリア」22議席が合計で228議席と、もともと基礎票では圧倒的に右派が有利。この間にいる、フィーニの「未来と自由」32議席、中道連合35議席、南部自治派など21議席だが、これらはかつてはベルルスコーニと組んでいた中道から右派の間の勢力だ。
 この3グループのうち1個半くらいの支持でベルルスコーニは勝てる、与党で造反が出ても、このうち2個の支持があれば勝てるが、野党は実はこれら3つすべて乗らないと過半数にいかない。つまり、それくらい基礎票に差がある。まとめると、現状ではベルルスコーニに過半数の支持はないが、それ以外の政党がすべてまとまっても代わりの政権はできない。
 とすると、90年代の半ばの政権危機で経験済みの「大統領政権」、つまりイタリアの首相は国会議員である必要がないので、大統領がこれはという人物に組閣をさせ、両院で信任されば非議員首班内閣が成立する。その候補はいるか?かつては、イタリア銀行総裁のチャンピや同銀行専務理事のディーニを首相にしたときもある。今の総裁のドラーギは欧州中央銀行の次期総裁候補の一人なのに、それに乗るか。また、ほかに経済人などでいい人はいるか。いそうにない。
 左派系の新聞『レプッブリカ』は、教会も政治家たちのモラル低下を気にしていて、祖国の危機に際して本来距離を置くはずの大統領と教会という世俗社会と宗教界のトップがかつてない一体化をしていることに、この共和国の形の溶解の危険性を見ている。

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「暴力」概念について:自民党へのレクチャー

 仙石官房長官が自衛隊を「暴力装置」と表現したことについて、自民党などから批判が集まっている。制服組が不快感を持ったという報道もされている。しかし、あまり自民党は感情的にならないほうがいい。見る人が見れば、自民党のほうの知的水準も問われる。
 むしろ、仙石長官は弁護士らしく、インテリくさい発言をしてしまったというのが真相だ。だから、正しいリアクションは、「あなたは評論家ではない!政府の責任者だ!」というべきであり、「暴力」という言葉の国民一般の浅い理解レベルに合わせて、あまり気取った分かりにくい表現をすべきでなかったというべきである。
 この発言に対し、自民党の谷垣総裁はツイッターで革命勢力なら使うかもしれないが、とつぶやいたが、これも不正確な知識である。それほど過激でない、左翼でもない普通の社会科学で使う、英語などヨーロッパ言語での「暴力」(violence)の意味に近い。これには、日本的な「暴力」だけでなく、強制力とか示威などのニュアンスを含む。
 たとえば、手元にある政治学の入門書(繰り返すが、左翼の本ではない)にどう書いてあるかというと、「紛争解決がゆきづまり、打開できない場合の最後の手段としてのみ、暴力、すなわち強制力が採用される。政府とは、所与の領域内で規制を行い、その規制を強制するに際して、暴力を排他的かつ合理的に使用する団体である。」
(C.A.リーズ『政治の世界』邦訳、p.6)
 政治学では、現実の力を冷静に分析するので、実力を行使して他人にその意に沿わないことを認めさせ、相手の行動を制約することは「暴力」という。その意味で国家や国軍が「暴力装置」であるという認識は間違っていない。
 もちろん、政府の責任者がこれを使うセンスは疑う。しかし、それはセンスの問題であって、責任の問題でない。
 むしろ、自衛隊員の立場に近づきすぎて、自民党側が「自衛隊は暴力装置でない」という答弁を引き出そうとするなら、それこそ、シビリアン・コントロールの否定になる。つまり、文民のほうが抑制すべき強制力の意味を深く理解していないということになる。哲学者からは笑いものになるだろう。
 だから、自民党は今回の発言であまり調子に乗らないほうがいい。明らかな議会軽視の柳田発言とは筋が違う。
 

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ベルルスコーニ信任、続投

 日本の菅首相ほどではないが、与党内にも分裂の気味が出てきたベルルスコーニ伊首相は、74歳の誕生日の昨日、下院で信任投票に臨み、もともと圧倒的に優位な与党の支持で信任された。内閣改造はありそう。
 下院の定数は630で、当日の出席者620、投票者617で、その過半数は309。結果は信任賛成が342、反対275。与党から少し造反あっても、野党の左派が弱すぎて、右派系の他党の支持で続投。
 関係ないけど、今日は石原都知事の78歳の誕生日。

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