リガブーエの東京ライブ

 リガブーエのワールド・ツアーの東京ライブを高田馬場のClub Phaseで聴いた。ライブハウスは久しぶりだ。開演は午後8時、その一時間前から会場だったが、地下の小さなライブハウスなので、余地がなく、開場15分前に行ったが既に行列ができていた。前売券の整理番号順で入っていくのだが、読み上げてもいない人も結構いたので、121番なので、比較的前のほうに行けた。ただ、この年ではオールスタンディングなのが辛い。イタリア人も多く、地下の小さなホールはすし詰めで、200人ほどもいただろうか、開演近くになると何度ももう少し前に行ってほしいと言われた。
 周りのイタリア人たちの会話からも、本来はスタジアムでも埋めることができるスーパースターだが、東京ではこういう小さな会場になるため、イタリア以上に近づけることに興奮していることが分かる。
 最初の曲は前日のインターFMの番組でも流していた、聖書から題名をとった Il sale della terra (地の塩)だった。イタリアの政界の体たらくに皮肉も込めた社会派の曲である。
 これに続いて、ワールドツアーのテーマになっているアルバム、Mondovisione から、Tu sei lei, Con la scusa del rock'n'roll など、過去の曲も、Vivo Morto O X, Eri Bellissima など、アンコール3曲も含め20曲ほども歌っただろうか。2時間弱、力強い歌だった。
 こういう大人のロックが日本にはない。
http://www.ligachannel.com/febbraio-liga-concerto-tokyo-e-shanghai

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パルチザンの歌

 ヨーロッパ統合史を講じるなかで、レジスタンスを話すときに何かオーディオ・ビジュアルはないかと探すが、そもそも地下活動、ゲリラ戦法だったりするから画像は少ないし、イメージを作れるほどのものがない。ムッソリーニによりフランスで殺されたロッセッリ兄弟がモデルといわれる映画「暗殺の森」は録画してあるが、これはある意味で史実に近く、彼らインテリ亡命者の庶民からみれば結構いい生活にも見えてしまうスノッブな面も描いている複雑な作品なので、暗殺場面以外は見せるのが微妙である。
 ただ、音楽には、フランスの「パルチザンの歌」、イタリアの「ベッラ・チャオ」という比較的知られたものがある。「ベッラ・チャオ」に至っては、先日夜遅くに入ったサイゼリアでも流れていた。それには理由があって、日本にもときどきやってくるイタリアン・ポップの女王ミーナ(現在70歳)が来日コンサートでもラストやアンコールで必ず歌うようだ。だから、歌として浸透している。
「パルチザンの歌」もシャンソンの名曲集などに比較的入っている。ただ、これを歌っている歌手については、よく知らないなと思って調べてみた。i Tunesでもアンナ・マルリ(Anna Marly)とジェルメーヌ・サブロン(Germaine Sablon)の2人の録音がダウンロードできるが、特にマルリのほうが時代を感じる(ノイズも入る)古い録音っぽい。実はこれはもともとはレコードでなく、抵抗運動家向けのラジオ放送で、マルリ自らが歌ったのである。最初にレコード化したのはサブロンで、それに続いてイブ・モンタンやジョニー・アリディなどシャンソン、フレンチ・ポップ(ロック?)のスーパースターが録音している。
 欧米の新聞で日本の新聞が絶対及ばないと思うのが、十分に調査され、なかにはこれ専門の記者もいるといわれる追悼記事である。2006年にイギリスの「ガーディアン」が書いたマルリの追悼記事は圧巻なので、著作権に問題がないように内容をまとめて紹介しよう。(私がよく自分の感想や他の本からの情報を混ぜるのは、実はこのためである)もっとも、似たようなことは、フランス史の研究者がすでにどこかで書いているかもしれない。
 アンヌでなくアンナなのは、フランスっぽくないなと誰もが思うが、なんと本名はアンナ・ベトウリンスキといい、サンクト・ペテルブルクでロシア革命勃発直後の1917年10月30日に生まれている。父は「革命の敵」として翌年に逮捕され、処刑された貴族、母はギリシャ出身である。母は乳母車を押してフィンランド国境に行き、服の下に隠した宝石を賄賂として警官に渡し、国境を突破、フランスに逃れ、白系ロシア人が集まる町に育ったようである。
 子どものころから音楽の才能があって、当時フランスに来ていたプロコフィエフに教わった時期もあるらしい。自分で作曲し、ギターも弾け、当時ギターの弾き語りが珍しかったパリのキャバレーで評判をとる。芸名のマルリは、電話帳からお気に入りを選んだという。
 そこからまた国境を越えた冒険が始まる。1938年にオランダ人外交官と結婚するが、ドイツがオランダ、ベルギーからフランスに侵攻したため、スペイン、ポルトガルと逃れ、オランダの亡命政権がおかれたロンドンにたどり着く。夫はオランダ亡命政権の諜報活動に参加、アンナもやはりロンドン亡命中のド・ゴールの自由フランス政府と連絡をとる。空襲後の遺体収集・破壊家屋清掃のボランティアと同時に、活動家に食事を振る舞いながら歌も歌ったことが今日に残る曲のきっかけになった。
 彼女が歌うロシア語の抵抗歌に、ジョゼフ・ケッセルとモーリス・ドゥルオンという二人の作家がフランス語詞をつけた。BBCのフランス向け放送でアンナ自身が歌ったのである。これがフランス抵抗運動で最も歌われた歌となる。アンナはさらに連合国の各国の言語、英語、チェコ語、ロシア語でも歌ったという。解放後のパリでアンナは、ド・ゴール将軍の前で歌い、レジョン・ドヌール騎士章を受ける。
 戦後もこの人の人生は波瀾万丈で、夫と離婚後、ロシアからの亡命者と再婚、アメリカ南部に渡り、歌い続けるが、全米ツアーを行ったシャンソンの女王エデット・ピアフ(このツアーは、マーシャル・プランのお礼参りのような米仏文化交流史の重要な一齣である)にも楽曲提供している。1965年にはアメリカ市民権を獲得、ところが、これで終わらなかった。
 1960年代のアメリカ黒人の公民権運動、欧米の学生運動や社会運動の波のなかで、抵抗歌として再び光を浴びる。レナード・コーエンが録音し広まると、この時代のディーバ、ジョーン・バエズも歌うようになった。この評判が今度はフランスに伝わり、伝記が出版されるなど再評価、2000年のド・ゴール将軍のロンドンでのラジオ放送から60周年行事に招かれる。
 アンナは最晩年には、小さなロシア正教会があるアラスカの小さな町に住んでいたらしい。
 すごい人生だが、授業で語るには、背景の説明に百個くらい注釈が必要になり、時間的に無理である。どの大学でもいいから、一生に一回だけでも「政治と流行歌」という特殊講義ができないかな?
 
 

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Comme d'habitude 試訳

 前項の英語版 As Usual に刺激を受けて、My Wayのフランス語原曲Comme d'habitudeの日本語訳を試みました。ギリギリ歌えるように音数を揃えるため(それでも、さだまさしのように歌わないと曲に間に合わない)に、完璧な訳にはなっていない自由訳です。これで、少し原曲のニュアンスが、フランス語を読まない人にも分かるかと。

朝目覚めると 君はまどろみのなか
寒くないかと シーツを掛けても
髪を触っても 君は気づかない
背を向けるのさ いつものように

急いで着替えて 部屋を出て
一人でコーヒーを飲んで 出遅れる
家を出ると 空は灰色
寒くて襟を立てる いつものように

いつものように 仕事も
楽しいふりをする
いつものように 微笑んで
いつものように 笑ってみる
いつものように 生きていく
いつものように

 こんなことしてないで、仕事しなさい(母が天国から叱っている)という感じですが、私がブログを書くのは、たいてい、仕事で煮詰まっているとき、いつものように。

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私が最も好きな歌

 もう2,3年前にこのブログで書いたのですが、私が最も好きな歌は、My Wayのフランス語原曲であるComme d'habitude(いつものように)。有名になったフランク・シナトラの英語版と違って、原曲であるクロード・フランソワの歌詞には、英語版のような唯我独尊のニュアンスはなく、普通の人々のそれほど楽しくない日常を描き、しかしそれでも愛する人とはスマイルと愛でなんとか生きていく、といった内容の静かに心にしみる歌なのです。
 中学生のころ、NHKのFMのシャンソン番組で知って、田舎ではそのテープを虎の子で聴き続け、大学に入ってからCDで入手し、ずっと聞いていましたが、動画ではクロード・フランソワを見たことがなかった(わたしの生まれた頃にできた歌なので)。それが、最近、家に光を導入してからスムーズに見られるようになったYou Tubeで多数、発見。ごく最近まで、古い映像はあまりYou Tubeにはないと持っていたが、ひょんなことからキリスト教民主党の古い映像を見つけ、これがあるならと検索をかけたら、まさに感涙もの。クロード・フランソワの歌詞つきの動画(歌詞だけ後でつけたのでしょう)もありました。
 また、今回、英語の歌詞でAs Usualとフランス語の原曲に近い訳にして歌っている歌手(誰かよく知らない)を発見。これは、日本でも岩谷時子の詞、越路吹雪の歌で有名になった「愛の讃歌」が、エディット・ピアフの原曲のニュアンスから離れているとして、美輪明宏が独自の詞で歌っているのに似ている。
 英語の歌詞に近い日本語ヴァージョンも美空ひばりの絶唱が。海外でもすごさがわかるようで、中国語や英語の書き込みもあり。
 これらの良さが分かってくれたら、地球上のどなたでも我が友と呼びたい。そう言っても誰もうれしくないでしょうが。もし、やや太めの私がふいに死んだら、これを葬式にかけてくれれば、ほかに望むことなし。

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World in Union

 数年前の新潟地震で被災者の心を癒した平原綾香の「ジュピター」。この曲がホルストの「惑星」のうち「木星」の部分から取られたことはよく知られているが、昨晩、NHKの衛星テレビで流れたイギリスの男子校の合唱教師の奮闘ドキュメンタリーで、これと同じ曲が合唱曲として彼の地では定番になっていることを初めて知った。
 曲名をWorld in Unionといい、実はラグビーのワールドカップ開会式で1991年から採用されているという。その年にはオペラ歌手のキリ・テ・カナワが歌い、オーストラリア大会ではUnited Colours of Sound というグループが、フランス大会でもロベルト・アラーニャなど世界各国から選ばれた歌手たちが歌ったようだ。だから、ラグビーが好きな人はとうに知っていたかもしれない。
 ただ、今回知って少し感動したのは、チャーリー・スカーベックという人がつけた歌詞が、人種差別のない世界を期待したものであることで、i Tunes で探したら、いろいろ個性的な歌手や合唱団が歌っていることに気づいた。例えばSoweto Gospel Choir というグループは、ネルソン・マンデラ・シアターでライブした録音があるし、グルカ兵師団の演奏もあった。
 平原綾香がこれを知っていたのか、知らなかったのか分からないが、日本で個々人の心を癒した曲が、彼の地ではもう少しコスモポリタンで人類愛的な曲として歌われているということが、同じ優しく深い旋律の働き方の違いとして興味深い。

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「ブラ1」に関する思い出

 青学でドイツの過去への取り組みに関する講演を聞く。普通、研究者のブログではこういうときに何を聞いた、と書きそうなものですが、講演とか口頭発表は内容を書くと著作権に関わり、案外扱いが難しいのです。せいぜい書けて自分の感想ぐらい。ちなみにこの講演は、ドイツでの近年の研究動向をおさえつつも、一般の人が聞いても理解できる内容で、ぜひ政治家や全国の教員に聞かせたいと思いました。
 その帰りに書店の宣伝を見て『のだめカンタービレ』の最新巻を買い、帰りの電車のなかで読了。そのとき、ドラマ版「のだめ」でもとりあげていたブラームスの交響曲第1番、通称「ブラ1」について思い出したこと2点。
 私が数年間、非常勤で講義に通っていた西日本の大学ではチャイムの音がブラ1の「ターララララーララ、ターララララララッラ」というあの有名な旋律でした。学生になぜ君たちの大学では、これがチャイムなのか教えて、と聞いたが、誰も知らなかった。
 実は、この曲が私は大好きで、その理由の一つが、かつて『週刊文春』の阿川佐和子氏の対談記事で確か著名ピアニストのU氏(名前は分かっているのですが、以下の内容の記憶が不確かなので、明言しません)だったと思うのですが、「ブラームスは老いていながら、その心の中になにか若い頃を思い出し、ほのかに燃えるものを持っているところがいい」という趣旨のことを言われていたような気がする。これが音楽の印象とドンピシャで、30超して大学院生をしていた私は何か励まされました。さすが世界の舞台に立っておられる方は表現が違うという強い印象を受けたのです。このインタビューは残念ながら文庫化された対談シリーズには収録されていない。切り抜きもなくしてしまった。
 そして、さらに「ブラ1」の記憶にあるのは、NHKの「みんなの歌」で、ブラ1のサビを「風さえあれば、風さえ吹けば、気球に乗って〜」という替え歌にしたのがあり、子供の頃、いい歌だと思って、これがいまだに頭に残っていたのです。
 今回検索してみて、すぐ分かりました。ホルストのジュピターを替え歌にした平原綾香さんに遡ること、20数年、1978年でした。なんと歌っていたのは和田アキ子さん。編曲は三枝成彰氏。そりゃ印象に残るわ。「風の歌」という題名でした。

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